「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
フォークロアの誕生・・・・・・お菊人形


万念寺全景

 お菊人形を、見た。

 髪の毛が伸びるというので今更説明も不要なほど有名なこの古ぼけた市松人形は、岩見沢から夕張方面に入ってったかつての炭鉱の町・万字の万念寺というお寺の本堂の片隅に、厨子に入れられて手厚く祀られてあった。別に狙ってったワケではない。たまたまその辺を走ってたら、大きく「お菊人形安置寺・万念寺」って看板が見えたので立ち寄っただけだ。

 すべての人形ネタの怪談はこのお菊人形に辿り着く気がする。市松人形は今や、怪談の一つのイコンとなった感さえある。それが証拠に、怖い本の表紙やTVの特集の小道具に市松人形は欠かせなくなっている。山岸良子の傑作オカルト短編・「わたしの人形は良い人形」にしたって、このお菊人形無しには生まれなかったろう。

 確かに髪の毛は伸びていた。最も長い部分は実に腰の下まで届いている。市松人形っちゅうのはワカメちゃんみたいなおかっぱが基本だから、栗山千明も驚く黒いロングストレートはいささか違和感がある。
 おれより少し若いくらいの大黒さんの話では、大昔はちょっとづつ切り揃えて、御守袋に入れて近所の檀家に配ったりもしてたと先代住職から聞かされたそうな。

 残念ながら秘仏扱いで写真撮影は厳禁だったので、今回、おれの撮った画像はない。ともあれ、記憶を反芻するために自宅に戻ってネットでお菊人形の画像を見ながらおれは気付いたのだった。

 ・・・・・・あれ!?もう髪の毛は何十年も伸びてないんとちゃうん?と。

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 お菊人形のエピソードについては、「女性自身」の記事が底本になっており、そしてその記事がいくつかの変遷を経ているというのは一部では超有名な事実である。簡単に紹介しておこう。1962年8月号に載ったもっとも初期ヴァージョンはこうだ。

 1958年、雛の節句に鈴木助七さんって40前のおっちゃんが、「自分の娘です。かわいがって欲しい」と言って、人形をお寺に預けて本人は本州に出稼ぎに行ってそれっきり音信不通になった。数年後、住職の夢枕に立ったおっちゃんは訴えかける・・・・・・「娘の清子の髪を切ってやってくれ」。驚いた住職が人形を取り出すとあな不思議のことよ!髪の毛が伸びてるではないか!!

 ・・・・・・ちょっと待ったれや。3歳で亡くなったはずのお菊はどうした!?清子って誰や!?

 次のヴァージョンは1968年7月号の「ヤングレディ」で、内容はこうなってる。

 1917年、鈴木永吉さん(当時17歳)は札幌に博覧会見物に行ったおり、妹・菊子のために土産物屋で人形を買ってきた。翌年、菊子ちゃんは亡くなり、1938年、樺太の炭鉱に旅立つ助七さんは遺骨とともに人形を寺に預けてった。そのまま忘れて、十何年後大掃除の際に見付けて開けてみたら髪の毛が伸びていた。

 永吉と助七の関係がさっぱり意味不明だし、全然、初期ヴァージョンと話も時代も違う。遺骨や遺品預かって忘れる住職っちゅうのもムチャクチャである。菊子ちゃんが何歳で亡くなったのかも良く分からない。

 さらに驚くべきことにこれらの記事を書いたのは同一人物、北海道放送の馬淵某なる記者なのである。こりゃもうどう考えても捏造の誹りは免れ得まい。そしてさらに記者名は不明だが、2年後の1970年、北海道新聞に2番目のエピソードの矛盾や素っ気なさを補正して洗練させた筋立ての記事が出て、現在巷間流布されるお菊人形伝説は完成する・・・・・・。そぉいや拝み終わって振り向いたおれに大黒さんはこう言った。「元は狸小路の玩具屋で買った何の変哲もない人形だそうです」、と。ハハ、伝説には今なお尾ひれはひれがついてってるのである。

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 さて、ここからは完全におれの推理、想像の世界だ。

 まず、最大の疑問は、どうして馬淵記者はこんな三文記事をわざわざ年代までずらして書き換えねばならなかったのか?ってコトだ。だって、書き飛ばすだけのゾッキ記事なら、基本そのまま使い回して、「てにをは」をちょっと弄れば済むことではないか?永吉・助七なんてバカみたいな矛盾まで抱えて完全に改変したのがどうにも解せない。
 どう考えたって、そこにはやんなくちゃなんないだけの必然性があったのだ。

 恐らく最初のエピソードが最も真実を伝えているのだと思う。時代が昭和33年であり、名前が清子ってことだ。しかしそれは、昭和14年、菊子ちゃんと改竄されねばならなかった。

 ・・・・・・それは何故か?

 おれは日本のエネルギー政策の転換による炭鉱の衰退を背景に、番町皿屋敷や枚方菊人形、あるいは生人形なんかの要素を取り入れながら、おそらくは住職も一緒になって智慧を絞った一世一代の客寄せ、あるいは町興しプランだったのではないかと睨んでいる。馬淵某の出自や来歴はサッパリ不明だけれど、住職とは幼馴染とか、古い友人とかなんとか、元々何らかの繋がりがあったに違いない。言葉は悪いが、グルだったんだろう。

 ちょっと歴史を紐解いてみる。1960年前後から石炭から石油への転換が急速に進み始める。1959年には石炭産業は「構造不況業種」とされ、1961年には有名な石炭政策転換闘争が全国的に展開される。これは結局、労働争議に明け暮れ、高人件費体質で価格競争力を喪い二進も三進も行かなくなった石炭業界の断末魔の悲鳴みたいなものだった。1962年を境に所謂「エネルギー革命」は急速に進行する。まぁ、そもそも論で平たくゆうと、先鋭化する労働組合が結局何もかもダメにしたのである。
 それはさておき、炭鉱だけに依存してきた町にしてみればこれら一連の動きは、自分たちの将来について暗澹たる気分にさせるものばかりだった。どぉなるんや?おれら?と。中でも万字炭坑は優良な炭鉱の多かった夕張・空知では、坑道からの出水が多いということで元来条件的に厳しかった。早くも1960年には採算性の悪さから会社は分離独立されている。1966年にはやや麓に近い美流渡炭鉱が閉山している。最終的な万字炭鉱の閉山は1976年のことだった。異常出水で坑道が水没したところに台風の水害が追い打ちをかけたのである。

 1958年に「本州に出稼ぎに行く」と言って鈴木助七さんがやって来たエピソードを1962年に雑誌に載せたのには、そんな事情が大きく影を落としていると言わざるを得ない。。

 では何故1968年には大きくストーリーが書き換えられたのか?

 要は一発目の仕掛けがも一つパッとしなかったからだろう(笑)。ミもフタもないが、あの記事で大して観光客は押し寄せなかったのだ。大体、中途半端な年齢のオッサンが出稼ぎに行くって人形持って来た、ってだけでは読者である女性の紅涙は絞れない。また、ツラツラ考えるにお清人形ではどうも語呂が良くない。それに戦後の話ではなんとなくありがたみも少ないし、出稼ぎ問題は高度経済成長に伴う建設ラッシュで60年代半ばより急速にクローズアップされたために、道具立てとして余りにありきたりだ。何より炭鉱の衰退はすでに日本各地で語られており、このままだと衰退する街への観光客誘致の狙いが透けて見えて、デッチ上げチョンバレになるかも知れない。やっぱここは重層的な歴史の重みみたいなものを乗っけて行きましょか!?あ〜、お清ぉ!?皿屋敷はお菊だし、ほれ、大阪では枚方菊人形展なんてやってるって言うぢゃありませんか、人形ネタなんだし、ここは菊子の方が通りがいいっすよ!

 ・・・・・・で、年代はサクッと約20年ずらされた。本州への出稼ぎは樺太渡航に置き換わる。お清は菊子にすり替えられる。

 これは当たった。大いに当たったと言っても過言ではないだろう。いろんな怪談本が北海道の片隅に祀られるお菊人形を取り上げさえもしたのだから。そして今、一般的に知られるお菊人形のエピソードに向けてのさらなるブラッシュアップが図られる。哀れ、菊子ちゃんはたった三歳で亡くなるわ、伸びた髪は毎年切り揃えてるわ・・・・・・と。

 フォークロアは必ずしも無知蒙昧な民衆による素朴な伝承ばかりではない。民衆の強かで高度な計算の結果だってことも大いにあるのだ。

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 住職によるまことしやかな「再発見」以来、実は少しもお菊人形の髪は伸びてなんていないのだと思う。だって大昔の写真と長さ一緒なんだもん。忘れてた奉納品の市松人形を偶然見付けたのは多分、事実なんだろうが、市松人形=おかっぱ、と思ってたためにザンバラになった髪にギョッとした、それだけだ。
 日本人形の髪にはかつて人毛が使われており、経年変化で意外なほど伸びることはままあった。さらに、頭部への植毛は髪の毛の束を二つ折りにして縛って根元を埋め込んでくのだけれど、子供が遊んで振り回したりなんかするうちに、それがズレて片側に寄ってしまい、伸びたように見えることもままあると言われる。お菊人形はおそらくそのパターンだ。

 それでも、おれはこのお菊人形伝説を支持する。馬淵某なる人物の記者としての力量がどれほどのものだったかは分からないが、少なくとも彼と住職の二人三脚コンビは、創作者としては極めて優れていた。たったこれだけのストーリーで市松人形に関するステロタイプともいえるイメージを作ったのだから。

 いずれにせよ今となっては真実は藪の中だ。当時の住職は既に亡く、恐らく馬淵某も鬼籍の人となっているだろう。その後を継いだ住職にしても高齢で寝たきりになってる。今は数えて三代目が、人口流出と過疎化が進んですっかり遠くの在ばかりになってしまった檀家回りであちこちを飛び回る毎日なのだそうだ。まるで年がら年中出張のサラリーマンみたいである。

 万字の町は最盛期の人口は5千人を超えていたのが、今はたったの2百人余りしかいない。鉄道はとうの昔に廃線になり、代替バスさえもが先年、廃止となったそうだ。5つあった寺のうち3つは廃寺となってしまっている。大黒さんは、はしなくもこう言った・・・・・・「これで儲かるとかそんなのはないですけど、それでもうちが何とかやって行けてるのは、お菊人形を訪ねて来て下さる方がいらっしゃるおかげです」と。


フフフ、アタシ本当は清子なのよ♪(拾いモノですみません・・・・・・)

2011.10.15

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