「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
創作とアル中の間


時系列で並べるとこうなるのかな?


 「恨ミシュラン」はじめ、いくつかの作品は読んだことあったものの、おれはこれまであまり西原理恵子の熱心な読者ではなかった。読めば非常に面白いのは良く分かってる。それで何でやねん?と問われるとむつかしいんだけど、「ガサツで破天荒なフリしてスノッブな文化人のフィールドを卓袱台返ししつつ、それでも結局は文化人的な立ち居地にキッチリいる感じ」が何となく気に喰わなかった、とでも言うしかない。その違和感は今でも実はある。

 ここんところ立て続けに作品が映画やTVドラマ化される中で、ついに鳥頭、もといトリとも言える元・旦那とのムチャクチャな家庭生活を描いた映画・「毎日かあさん」が公開される。作中同様に演じるのが小泉今日子と永瀬正敏の別れた元夫婦コンビっちゅういささかあざといキャスティングの話題性もあってか注目を集めてる・・・・・・で、これ、実のところ浅野忠信・永作博美が夫婦を演じた現在公開中の映画・「酔いがさめたら、うちに帰ろう」と視点が違うだけで、まったく同じシチュエーションがベースになってるのだ。前者が妻から見た状況、後者が旦那から見た状況となってる。双方の映画は別にタイアップでもなんでもなく、それぞれ独立して製作されている。ほぼ時を同じくして視点こそ違え同じ話が映画化されるなんて、これまでの日本映画では無かったんぢゃないのかな?

 要はそんなこんなでごっつい盛り上がってるのである。そしてその元・旦那である鴨志田穣の著作が文庫化されて書店でたくさん平積みになってるのを見つけた。どぉにもならない怒濤のアル中で、その凄絶なダメダメぶりについては生前から断片的には知ってたけど、初めてちゃんと読んでみて正直、慄然とした。完全に壊れたアル中の姿に、ではない。そこにまで到る回路にである。

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 急性アル中になるのは実に簡単で、適度に酒に弱い人が一度に大量に呑むだけでよい。よく新学期の頃に学生が救急車で運ばれるパターンだ。確実になれる・・・・・・命の保障は出来んけど(笑)。

 一方、慢性のアル中になるのはかなり大変だ。手間暇がかかる。まずは基本的な資質が備わってなくてはならない。何かっちゅうと、底抜けに酒が強いことである。アルコール耐性が生まれつきひじょうに高く、呑んでも呑んでもなかなか酩酊しない体質が必要なのである。そうでないと、重篤なアル中になる以前に内臓をやられてくたばってしまうのだ。
 何でもアルコール分解酵素は南京豆のサヤみたいなのに収まっていて、中に酵素が2個入ってる完全型、1個だけ入ってる欠損型、まったく入ってない欠落型の三種類があるらしい。どれを持っているかは人によって異なる。完全型の人が要は酒に強いタイプで、慢性アル中になるのはほとんどこのタイプと言われる。欠損型は身体がだんだんアルコールに順応して酵素の分泌量が増えてくることで強くなる。初めて酒を憶えた頃は弱かったのにだんだん強くなってく人がこのタイプ。ただ、平たくゆうと完全型に拮抗するには2倍分泌せにゃならず、それはやはり負担なので身体を壊しやすい。ちなみに日本人にはこの片方欠損タイプが最も多いらしい。おれもおそらくはここに属している。三番目のパターンは奈良漬やウィスキーボンボン食っただけでブッ倒れるタイプだ。そもそもアルコールが体質的にダメな人で、どれだけ飲酒を重ねても強くなることは無い。だからこのテの人に無理矢理飲ませるとエラいことになる。

 また、かなりの長期間に及ぶアルコール大量摂取も必要である。どれくらい長期間か、っちゅうと少なくとも年単位である。5年とか10年とか。普通の人ならとっくに身体が悲鳴上げるくらいの期間を経てようやっと慢性だ。知り合い、っちゅうてももう随分以前に亡くなった人で慢性アル中だった人がいた。この人は発症して精神病院にぶち込まれるまでの実に10年間、来る日も来る日もサントリーのホワイトを1本づつ空け続けたそうな。それなりに根性が必要なのである。

 加えてそのような連続飲酒状態に陥るキッカケが必要である。今風の言い方をすればトリガーってことで、これは千差万別、いろいろある。鴨志田穣の場合は、戦場カメラマンとして世界の紛争の現場を渡り歩く中で見た無残な光景がトラウマになって酒に溺れてったらしい。アル中小説としては元祖といえる「今夜、すべてのバーで」をものした中島らもは、あまりのオーバーワークで執筆に行き詰ったことが直接の原因であった・・・・・・まぁ、酒以外にもありとあらゆる薬物にアディクトしてた人ではあったが。ちなみにホワイト10年間の人は学生運動の行き詰まりがキッカケだったらしい。いやいや、今回は「創作とアル中」ってテーマに絞って書いてるが、一般ピーポーたるおれ達にも衝撃、敗北、挫折、喪失、鬱屈、別離、孤独・・・・・・どこにだって依存への口は大きく穴を開けてるのだ。

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 ・・・・・・でも、だ。

 キッカケが人それぞれなだけで、創作活動をする人で怒濤のアル中に陥る人にはみんなどっかなるべくしてなってるような、予定調和なところがある気がする。もっと言うと自分の中にある下降倫理のようなものに導かれて必然的に、なる。酒に強い、っちゅう形質だけでなく、性格や能力面で共通する点があるように思うのだ。

 一つにはまず生まれつきとても頭の良い人が多いように思う。それもハンパなアタマの良さでなく神童の誉れ高いタイプ。中島らもが天下の名門難関進学校である神戸の灘中に3番の成績で合格して、自分より上にまだあと2人も勉強できるヤツがいたんだって驚いた、ってなまるで人喰ったようなエピソードなんかは端的にそれを物語る。鴨志田穣も教育大付属小学校〜中学校と進んだそうだから、元々ひじょうにアタマの良い子供だったんだろう。ああ、鬼畜系サブカルの旗手だった青山正明なんかもそうだな・・・・・・おらぁこの人はあまり好きではなかったが。
 頭がよいことが決していいことばかりではないことは以前も書いた。その頭脳ゆえに思索的でもあり、居心地の悪さ・・・・・・所謂「疎外感」を抱くようになるケースの方が存外世の中多いのではなかろうか。
 そして必ず、10代くらいで何らかのスピンアウトをする。ここで沈香も焚かず屁もこかず、特段何も起きずにエリートコース突っ走れればそれなりに穏当にめでたい一生終えるのだろうけど、文学だの絵画だの音楽だの映画だの芝居だの、とアートっちゅうか、まぁ、悪く言やぁ道楽に目覚めたりなんかする。厳格だったり俗物だったり卑小だったりする親とぶつかる。カノジョができてそっちに没頭する。政治に目覚める・・・・・・etcetc。
 でも、それで何かを見つけてハマッて、ガーッと一途に邁進するような人は幸せ者であって、そんなアル中だなんだとは無縁である。そこに次の特質が出てくる。

 もう一つは生来のアタマの良さもあってか、概して器用で多芸多才な人が多い、ってコトだ。肩書きのつけようのないくらいの中島らものマルチぶりは今さら言うまでもない。鴨志田穣にしても自身はとてもコンプレックスが強かったようだが、実際そんなことはなくて、焼き鳥屋の丁稚やってもオヤジにすぐに見込まれるわ、何となくタイに行ってホロホロしながら戦場カメラマンになってもたちまち頭角を現すわ、帰国して成り行きでモノ書きになっても、平明でありながら抑制されて精緻ないい文章が書けるわ・・・・・・と、つまりは多芸多才であった。
 しかしながらどぉにも多くは大成しない。そらまぁ大家になって歴史に名を残しゃぁエエっちゅうモンでもなかろうが、なんでも割りと容易にやれてしまうもんだから、すぐに虚しくなったり悩んだりする。努力や苦労と裏腹のリアリティと充実感、あるいは石に齧り付いてでも手放さない欲望といったものが湧いて来ないのかも知れない。器用貧乏っちゅうか、飽きっぽいっちゅうか、愚直で生々しい粘り強さが欠けており、折角そこそこまで行ったのに、平気でポイと投げ出してしまうようなところがある。

 そぉいや寺山修司も大概マルチプレーヤーだったし、同じくいろんな薬物依存(・・・・・・ってか病弱だったのもあるらしいが)が祟って肝硬変で早世したものの、ムチャクチャに破滅型ではなかった。時代の寵児として結構下世話に振舞って、世の中を上手く渡り歩くだけのしたたかさや如才なさも身に着けていた。それに彼はあくまで「言葉」のフィールドからは大きくはみ出さなかった。現に絶筆となったエッセーの中でも「私の墓は、私のことばであれば充分」などと書いている。その点でとても愚直だったし、だからこそ大成できたとおれは思ってる。

 元に戻す。さらには、ニヒリズムとオプティミズムが同居したような一種独特の「なげやりで突き放したような軽さと透明感」も創作とアル中の関わりを考える上で重要なポイントと言えるだろう。米櫃の米がなくなっても、財布に一円の金もなくなっても、いや、それどころかアル中が進行して通常の人間ならこりゃもぉヤバいわ!死んでまうわ!って気付くレベルまで体調が悪化しても、まぁどぉにかなるさ、と本気で思ってる。死ぬような思いしてもなんだか飄々として、まるで他人事のようだ。
 それは達観や諦念というより自分自身の存在に対する関心の希薄さ、生存欲求の欠乏に因るものだろう・・・・・・要するに、フツーだと生きてる実感が元々あんましないのである。どぉでもいいのである。
 彼等の行う創作活動のすべては、おそらくは根っ子の部分ではたつきを立てるためでも、名誉欲でも、金銭欲でもない。自分の生きてる実感を掴み取るためのひじょうに内向的な作業なのだと思う。それはなるほど純粋かも知れない。けれど、人の目に触れることも無く、閉ざされた部屋の中に何年も蓄えられ、偶然死後に発見されたりするアールブリュと本質的には変わらない。

 上に載せた鴨志田穣の「遺稿集」って本の最後のエッセイに、次のようなくだりが出てくる。唯一の親友と言える弱小出版の社長である「ドイ」と沖縄で痛飲して(それも恐ろしいことに静脈瘤破裂で客死しかかって、退院してすぐ!!)、そしてそこで彼に諭されつつ問われるのだ。ドイはこう言う。

 ----お前、戦場に行った時〜〜中略〜〜もらったギャラが少なくて、いやになったなんてないべ。じぶんがやりたいようにやった。
    ただそれだけだったはずだ。
 ----お前、自分で銭を掴み取った実感、ないべや。自分の力でやったって本気で思えた仕事あるか。

 この問いは極めて鋭いと思う。しかし、悲しい問いでもある。創作がその地平から始まってる以上、それこそが超えられない限界なのだ。

 しかし、冷静に考えてみればこれって生きてく上での大事な心棒っちゅうか梁っちゅうか、一番芯にならんとアカン部分がまるですっぽり欠け落ちている状況に他ならない・・・・・・要は生存本能ってヤツだ。
 人は・・・・・・いや、生き物は生きるために食い、そのために働く。ライオンは狩りをしないときはひたすら怠惰だ。マグロやイワシは泳ぎ続けてないと酸欠になって死んでまうからしゃーことなしに寝ても覚めても泳いでる。逆に言えば、働かなければ食えないし、生きていくことが出来ない。そのルーチンは逃れられない業のようなものだ。その根本原理から逸脱したところに、これら破滅型のナンギな人々はいるように思う。

 社会不適応なんて生ぬるいモンぢゃなくて、「この世にいること自体があまり向いてない」っちゅうた方が正しいのかも知れない。そしてそのことを明晰な頭脳による慧眼ゆえ自覚してるからこそ、より一層自らを罰するかのように酒で我と我が身を痛めつける。中島らもはエッセイの中でいみじくも書いている。「アルコールに依存することは緩慢な自殺である」、と。

 西原はタイの取材旅行でであった鴨志田に同じ感受性の匂いを感じ取ってそれで惚れたらしいが、根本のところでは完全に真逆だったのだと思う。破天荒で豪快なものの、彼女の作品には生きるために食い、食うためにバリバリ働くんだ、そのためには青臭いゴタクなんて並べてられまへんでぇ〜!っちゅう感じの、生を謳歌する極めて真っ当で明快な健全さや生活力が感じられる。

 ・・・・・・おれの感じたちょとした反感もその辺にあるのかも知れない。おれはまぁどっちかっちゅうとダメ男のカテゴリーに属する方だし。

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 ただ、誤解のないようにお断りしておくと、おれは彼等に自分を投影してはいない。第一おれは酒がそれほど強くない。休肝日はなるほどろくすっぽないけれど、まぁ呑む量なんてたかが知れてる。ちょっとポッとなればそれでOK。一升酒なんてよっぽど体調が良いときでないと出来ない荒業である。だからそれでまず失格だ(笑)。
 そりゃたしかに傾向的に似ているトコはあるし、生き損なってるなぁ〜、って思うことしばしなものの、そんな野郎は世の中には掃いて捨てるほど溢れてるワケで、ちょいとした自制でまずまず抑えられる程度だから全然大したコトはない。何のかんので臆病で中途半端だったお陰でまだ救われてるのだ。

 余談だが、この創作とアル中な人にはモテる人が案外多いようにも思う。アタマいいのに恬淡としてて頼りなく、女性としては母性本能をくすぐられて放っておけなくなるんだろう。嗚呼、この点でも残念ながらおれは失格だわ。ピヨヨヨ。

2011.02.21

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