「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
置物偏愛


・・・・・・溢れる日は近いかも(笑)。

 出張はどれくらいの頻度を超えたら多いのかは良く分からないけれども、おれの場合、まぁ年に何日か行く程度なので多いとはとても言えない。「無くはない」といったところだろうか。

 普段の旅行では何も無いようなところばかり出掛けてるのに対し、出張は仕事で行くものだし、業種はそんな特殊なものでないから、そんな人跡果つるような、鳥も通わぬようなところにはまずもって行かない。そこそこ人口のある地方都市みたいなんばっかしである。宿泊するのも至極平凡なビジネスホテルであることが多い。自分で手配するなら商人旅籠みたいな和風旅館を「じゃらん」かなんかでテキトーに見繕って引っ張るけれど、相手があって呼ばれたような場合、大抵宿泊場所まで手配してくれるもんだからそうなってしまうのだ。立場のある手前、ワガママ言うわけには行かない。おーきにおーきにであてがわれた所に泊まるしかない。
 壁に作り付けの机、座ると目の前に姿見、ちっこい電熱ポット、小型のTV、狭っ苦しいユニットバス・・・・・・どこも同じような殺風景で味気無い造作だ。ボエンボエンして硬いんだか柔らかいんだか分からないベッドっちゅうのもどうも苦手で熟睡できない・・・・・・とは申せ、それらも旅寝ゆえの一つの体験ではある。

 「全ての移動には旅の諸相が幾許かは含まれる」っちゅうのがおれの持論で、別に何するわけでもないけれど、僅かの空き時間、知らない土地をウロウロするだけでけっこう気分が和む。知らない店にフラッと入ったり、気儘に風景を切り取ったりするだけでしみじみ落ち着く。ついでに言うと、ぶっちゃけ接待とか受けたりするよりよっぽど気楽でいい。その姿はよほど風景にはまり込んでるのか、それともあまりに風采が上がらないゆえか(笑)、旅先で道を尋ねられることが出張のときもひじょうに多い。

 そうしてその町を去るときには多少なりとも土産を買い込む。職場には若い衆が多いから手ぶらはマズいし、家の方もなんぼ仕事とはいえ遠出してんだから、なにがしか買って帰らんと角が立つっちゅうモンだろう。適当なものがないか物色しに土産物屋に入るのだけど、最近、妙なことに気付いた。

 何となく置物の品揃えが年を追うごとに減って来てるように思えるのだ。ご当地キューピーやゆるキャラ等のマスコットを用いたファンシーグッズ類はある。もちろん饅頭やなんやらの菓子折り、酒、保冷材が必要な肉・魚・練り物系、佃煮や漬物、干物、瀬戸物といったものは昔よりよっぽど品揃えは充実している。しかし、所謂「素朴な民芸品」っちゅうんですか、「郷土玩具」っちゅうんですか、ああいったたいていは木彫りや竹・麦藁細工、張子、粘土を固めたもの等に泥絵の具を塗ったようなものの品揃えに、どの店もあまり熱心でなくなってきてるような気がするのだ。

 今日もとある地方から飛行機で戻って来たところなんだけど、空港ロビーに三軒あった土産物屋で置物を飾る店は僅か一軒だけ、それも棚の隅に申し訳程度にチョロッと並べられてるだけだった。

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 その理由はいくらか想像がつく。何より今時売れないのではないかと思う。

 家の中に民芸品があると、やはり途端にその周辺がモッチャリとした和テイストな空気に包まれてしまい、まぁ端的にゆうとダサい。スカしてアーバンでモダーンでハイソな生活(笑)には挟雑物以外の何物でもないのではないか。クソ高い値段で買った直線基調でバウハウス的なデザインの北欧家具系サイドボードも、民芸っぽい置物一つでいきなりガラスの引き戸の茶箪笥に変わり果てさせてしまうほどの破壊力がある。それに今の時代、置物を並べておけるほどの居間のある家だってそんなに沢山あるワケではない。

 みんな置物に興味がなくなったってのもあるかも知れない。思えば昔は安っぽい置物に「旅の想い出」なんて白い文字で書かれてたりするのをよく見かけたもんだ。何でかっちゅうと、写真が今ほどチープかつイージーでなかったからだ。カメラなんてもんはとても貴重なもんで、そんなビシバシ旅のスナップショットなんて撮れるものではなかった。ケータイで動画まで撮れてしまう現代と比べると、旅に出かけた記念の何かが必要だったのである。
 交通網の発達ももちろん、置物に対する興味の大きな阻害要因である。旅行がどんどん快適で速くなってしまうと、移動の労苦が少なくなり、それと引き換えに感動が薄れてしまう。陸路で東京〜青森が3時間半で行け、目が飛び出すほど高かった飛行機も格安航空券がいくらでも手に入り、休日は高速道路が千円で乗り放題のご時勢だ。「郷土」そのものが溶解しかかってるのである。どうしてその地に行った記念品をわざわざ買い込まねばならんのか、って思う人が増えてもおかしくない。

 さらには見た目の地味さのわりに意外と値段が高い上に、値段に見合うだけの価値が分かりにくい、っちゅう難点もあるだろう。素朴を通り越して稚拙としか言いようのない(いや、そこには素人には理解不能な高度な匠の技が隠されてるのかもしれないけど・・・・・・)ブツが千円・二千円、ヘタすりゃ五千円・一万円とかする。片や20個千円の見た目だけはやたら派手な菓子折りは平積みでいくらでも置いてあるのだ。

 別の切り口だと後継者がいないという問題だってあるに違いない。それで食ってくためには、「生活費 ÷ 製作個数 = 卸値」って冷厳な式が横たわってる。素朴でも稚拙でも原価がどうでも、やはりお足は必要なんである。でも、売れなけりゃ注文も来ないし、食えない。かといってヘタに名人になればそれはそれで大変。値は付くかも知れないが数がハケない。つまりどっちに転んでもナカナカ食えない。
 それでなくても日がな一日、年がら年中、根を詰めてチマチマと同じ作業の繰り返しに没頭するような仕事が敬遠される時代である。「**作り、最後の職人」ってなタイトルの記事、地方紙とか地方版の片隅等でしょっちゅう見かけるでしょ?

 置物の衰退と地方の衰退は軌を一にしてるように思えてならない。

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 おれだって元々は置物に興味がある方ではなかった。増えると何だか家の中がゴチャゴチャするし、埃をかぶると掃除が面倒だし、それに別に無くたって困ることが何一つ無いからだ。しかし、上のようなことを考えてるうちに置物にある種の愛おしさを感じるようになった。それは喪われ行く「郷土」や「地方」の形代なのではないかと。

 そんなんで個人的な旅行だけでなく、出張の折も置物を見つけてはちょっとづつ買うようになった。

 今は何だか凄いことになってる。「クソ高い値段で買った直線基調でバウハウス的なデザインの北欧家具系サイドボード」、とは恥ずかしながら実はおれの家のリビングの調度のことで、横幅は3mを超え、縦はほぼ天井一杯の高さっちゅう巨大な棚である。ウォールユニットとかゆうらしいその棚の3段を各地の置物類が独占しちゃっている。もぉゴッチャゴチャで収拾がつかない。
 どれもこれもそんな値の張ったものはないし、今後骨董的価値が出るようにも到底思えない。バッドテイストなチンマン系ののも中には混じる。無用の用、どころか無用そのものと言わざるを得ない。ヨメはかなり迷惑がってる。埃が付きやすいだけでなく、華奢なものが多くて掃除が大変だからだ。

 なるほど、どれもまぁ野暮ったくもダサい。切手ほどの大きさで超集積回路が作られるご時勢に土鈴だとか何とか、そらこれぢゃぁ子供騙しと言われてもしゃぁないよなぁ〜、って思えるようなものばっかしである。しかし、その稚拙さが却って、押し寄せる巧妙で大掛かりな画一化・均質化の波にひとたまりも無く呑み込まれつつある地方の、プリミティヴながらも弱々しい抗いの声を表しているように思えてしまうのだ。

 我が家の置物はこれからも増殖を続けるだろう。いっそ、ポリプロピレンの花茣蓙でも敷いた上にガラスの引き戸の茶箪笥でも置いて、そこに並べてやろうかと今では思ってる。

2011.01.23

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