「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
あらら〜!(U)


こんな風に懇切丁寧に解説してるサイトもあったりするんだから、もう。

http://www.toseki-oil.jp/より

 学生時代に下宿してた左京区の修学院って町は比叡山の麓にあった。今では鷲宮ほどではないが「けいおん」アニメ版の影響でアニヲタの「聖地」と化してると言わる。駅を出て小さなアーケードの商店街を抜け、雲母坂って河岸をコンクリで固められた川沿いの日陰のないダラダラ坂を上がって行くと、そのうち道は山道に変わり、大きな砂防ダムを越えたあたりから完全に山の中に入る。細い山道はくねりながらなおも続いており、2時間半ほど歩くと比叡山の山頂に出るのだった。
 砂防ダムまではしょっちゅう行ってた。しかし、その先は距離もあって一日仕事になるんで、数えるほどしか行ったことがない。ともあれフツーにそこそこ険しい山道だった。当時はそれほど登山ブームでもなかったから登っててもすれ違う人は滅多にいなかった記憶がある。今はどうだか知らない。

 ともあれそんな比叡山の登山道で、おれが大学を出て数年後だったか、とってもイヤ〜な事件が起きた。雲水姿のプーのオッサンがたまたま一人旅でそこを通ってた女子大生を犯して殺したのである。何で坊主のカッコなのかも相当意味不明だし、どうして彼女がそんなマニアックなルート通ったのかも良く分からないんだけども、とにかく中上健次の小説を地で行くような陰惨なことがそこで起きたのだった。余りの特異さゆえに記憶に強く残っており、以前にもこのネタは触れたことがあるかも知れない。。
 何でこんなことまで載ってるんだ!?といぶかしむほどの充実度を誇るWikipediaに詳細は出ているんで、詳しく知りたければ見たら良いと思う。とにもかくにもシュールな事件ではあった。ちなみに被害者は空手の有段者だったにもかかわらず、不意を衝かれたため、まったく護身の役には立たなかったらしい。

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 新田次郎の小説に、山を舞台にしたドロドロした人間模様と、その結果引き起こされる無線機に仕掛けたトラップによる殺人事件を描いたミステリー作品があったと思う。生憎タイトルは失念してしまって良く分からない。新田次郎ったって今はだいぶ忘れられて「国家の品格」書いた数学者・藤原正彦の親父、っちゅわんと分からなくなっちゃった感もある。しかし、昭和30年代から50年代にかけてベストセラーを飛ばしまくった作家である。気象庁に勤務して二足の草鞋を履いてただけあって、山岳モノを得意としてた。

 彼がこの作品で描こうとしたのは、「山登りするヤツに悪人はいない」ってなまことにおめでたくも根拠のない世論っちゅうか常識っちゅうか大衆の思い込みに対する批判だったんぢゃないかと思う。
 なるほど山登りは何だか高尚で健全な趣味のように思える。胸を張って「山登りが趣味です」って言える人は世の中に無数にいるだろうが、胸を張って「ソープ通いが趣味です」とか「M女を調教するのが趣味です」とか言えるヤツはおらんだろう。山登りが秘するが花の趣味趣向でないコトは間違いない。早起きして、暴飲暴食もせず、いい汗かいて、雄大な景色見て・・・・・・ケッ!吐き気がするほど爽やかだぜ!(笑)。
 しかしそれを嗜む人が悪人でないとは誰が言えようか。近所のどぉしようもなくクソ忌々しい性悪ババァがこのところ山登りに開眼しくさって毎週のように出かけてる・・・・・・な〜んてみなさんの周りでもある話でしょ?ベタな例で申し訳ないけど。要するに「出モノ腫れモノ所構わず」で、事件なんてモンはあらゆるところで起き得るのである。

 温泉なんてのも「ゆったり」だとか「のんびり」だとか、おれの大きらいな言葉の「ほっこり」だとかで形容される場所なんだけど、それはあくまでイメージだけなワケで実際安全でもなんでもないし、ワニに代表されるような変質者だって夜昼の別なく沢山やって来る。

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 そうして実際、事件は起きた。大分・別府は明礬温泉奥の野湯に至る林道で若い看護婦が殺され、斜面に捨てられてるのが発見されたのだ。彼女は一人でクルマを駆って九州を旅していたらしい。

 明礬温泉は別府の温泉地の中では最も山に上がった所にある。九州自動車道の巨大で無粋な橋脚が出来て往年の素朴な味わいはずいぶん失せてしまったとも聞く一方で、相変わらず竪穴式住居を思わせる藁葺きの明礬小屋(温泉名もここからできた)の下あたりに、鄙びた感じの小さな旅館が固まっているのは変わらないらしい。
 周囲は噴気地帯があちこちにあって、中でも有名なのは旧・紺屋地獄跡にある広大な「保養ランド」だが、隅々まで開発し尽くされたような別府にあって、未だ野湯が点在する。そのうちの一つ、通称「鍋山の湯」に向かおうとしてたのか帰る途中だったのかは知らないが、途中の林道で彼女は殺された。おれが初めて訪ねた80年代はホント知る人ぞ知る地元民だけの秘湯で、まだ「鍋山の湯」なんて名前自体もついておらず、鬱陶しいワニもおらねば露出系グループもおらず、実に長閑で快適な野湯だった。本当に腹立たしくも残念なことである。

 ぶっちゃけまさかこんなタイトル・中身の続編を書くとは自分でも思ってもいなかった。前回は新潟・赤湯温泉で起きた事件に「富士見平小屋事件」を織り交ぜながら、女性の一人旅っちゅうのがいかに危険であるかについて、いささか辛辣すぎる言い回しで警鐘を発する話の運びとした。それはそれで自分では間違っていないと思う。ただ、何となく言い尽くせてはない気がしていたのも事実である。
 今回は切り口を変えて裾野が広がることの危険性、って文脈でウダウダと脱線しつつも書き連ねてみたい。まぁ、このことについてはこれまで散々書いてきたことでもある。それは分かってる。でも、書く。

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 裾野が広がるってコトは要は大衆化するってコトである。んでもって、大衆化は罪なことである。

 当然は無論・勿論、オブコース、おれも大衆の一人であるからして、この主張は自分を棚上げした高慢かつ無責任な発言との謗りは免れ得ないだろう。しかし、事実は事実なのであって、例えば自家用車、ってーヤツを考えてみればすぐに分かる。これがごく一部の上流階級の特権的な贅沢品であり続けていたならば、少々燃費悪かろうが、排ガス撒き散らそうが、地下資源は枯渇することもなかっただろうし、こんなに大気が汚れることもなかっただろう。悲惨な交通事故による死者だってもっと少なければ、道路も渋滞なんかとも無縁のものになっていたし、風景を切り裂く高速道路なんてものも必要なかった。
 それより何より、こんなに各メーカーがあくせくと性能向上とコストダウンにしのぎを削る必要もなかった。のんびりマイペースに拵えて、バカ高い値付けでちょこっと売って大きな利ザヤを稼いでおればよかったのである。フェラーリみたく。
 パソコンだって、ケータイだって、もっと古くはテレビだって、およそ工業製品なんてモンはみんなそうだ。モノが安く、豊かに行き渡れば人は幸せになれるはずだ、っちゅう実は何の根拠もないいわば「信仰」によっておれたちの社会は「発展」してきた・・・・・・で、それでおれたちが幸せなんか?っちゅうたらかなり微妙であるんだが・・・・・・。

 産業革命とか市民革命というものを、おれたちは従来かなり肯定的に捉えるように教え込まれて来た。ところが意図的な隠蔽なのかそれともそこまで思いをいたすことができなかったのか、猛烈な大量生産/大量消費社会がもたらすであろう諸問題についてはほとんど教えられることはなかった。教わったのは公害くらいだ。
 一つには総量では暗愚な為政者の行う放埓で奢侈な蕩尽をはるかに超えるいろいろなものの消耗や荒廃、って問題であるが、まぁそんでも、物質そのものについてはちょとだけ反省の時代に入ったのかも知れない。「エコ」とか「できることから」とか何とかまことに耳ざわりの良い言葉でもって生ヌルーくではあるとはいえ、行き過ぎた消費や無駄遣いを戒める機運が世間に育ちつつあるのは事実だろう。

 もっと重大な問題は、そのような消費が「モノ」以外へ波及していることと、おれたちの誤謬、っちゅうといささか表現が堅苦しいか、まぁ勘違いであるとおれは思う。
 消費の「モノ」以外への波及、ってことについては先日優れた文章を読んだ。ちょっとどこで見たのか忘れたんだけど、その中で述べられてたのは概ね、日本人がジックリ考えるってことをしなくなり、アイドルやお笑い芸人といったタレント、TV番組、事件、政治までもが性急なイメージだけの感情論に振り回され消費されてる、ってな内容だった。まことにその通りだと思う。おれがここでヘタな文章こねくり回すより千倍上手く書けてたんで、それ探して読んで下さい。たしかどっかの新聞の社説だった。
 勘違いとは次のようなことだ。第2の産業革命であると言われるインターネットの爆発的な普及によって。情報は大量生産され一般大衆へと開放された。それはある意味、善なることである。おれだってその利便性を大いに享受してる。しかし、そうして情報が容易に得られるようになったことで、その情報を元に何がしかの行動をすることまでが易しくなったと思うようになった・・・・・・と。
 言うまでもなく錯覚である。何かの情報を元に行動するには、実はそれ以外に知識や常識、見識、想像力、洞察力、理解力・・・・・・今風に言えばスキルとかリテラシーってモンが総合的かつ相当に必要なのである。そんなもんまでがそぉ簡単に平易になるわきゃないんだけど、おれたちはそこを勘違いしちゃってるのだ。そしていろんな領域に不用意に入り込む。

 死者に鞭打つ気はないし、もちろん未だ捕まってない犯人が何よりも悪いのは言うまでもない・・・・・・ないが、この被害者女性の取ったと思われる行動はやはりあまりに脇が甘いと言わざるを得ない。
 巨大な宿泊能力を持つ一大観光地の別府市街から僅か数キロ、昔と舗装状況は変わってないみたいでダート区間は1キロちょっとだ。4WDなら何の苦もなく露天風呂にだって横付けできてしまう。オマケに今はネットでもボンボン紹介されたもんだから有名になっちゃって、さほど温泉に興味のない者でもその存在を知ってるような場所である。そこに暗くなったからもうそろそろ恥ずかしくないし、夜景も綺麗だろだろ、って出かけてく。
 逆の見方をすればここは、氏素性の知れない人々が各地(今や世界中だ)から数多く立ち寄り、一方で地方都市としてそれなりの人口も抱える街(当然、善良な市民ばかりではない)のすぐ近くにあって、ネット等でその存在は今や遍く知られ、誰でも容易に来ようと思えば来れる。それでも夜の山中はやっぱり寂しいから、助けを呼んでも声は届かず、悪事を働く者にしてみりゃ夜陰に乗じてすぐに逃げ出せたり隠れたりできる場所なのである。乗ってたクルマは軽自動車らしいから、あるいは女性らしいインテリアにしてたかも知れない。下心のあるヤツにしてみりゃ、そんなんが暗い山道に停めてあったら最高の情報だ。そんな所で、か弱かったかどうかは知らないが、うら若き20代のオネーチャンが一人でハダカになるのだ。たとえ犯罪者気質の者でなくたって豹変するかも知れん。ムチャクチャ危ないに決まってる。

 別府の秘湯の情報を仕入れると同時に、それら様々のことを彼女が考えておったら、決してここが敷居の低い場所ではないんだ、ってコトを少しでも予測していたら、こんな無残なことにはならなかったんちゃうやろか、とどうしても思ってしまう。

 この事件は情報の大量生産/大量消費の時代がもたらした悲劇のように思えてならない。そもそもここまで情報が氾濫する時代でなければこんな場所、被害者の女性だけでなく犯人だってどだい知りえなかったかも知れないではないか。現に80年代の半ば、おれが初めてここの存在を知ったのは、現地をウロウロしながら温泉入ってる地元民つかまえては「山の中に勝手に湧いてるようなトコないですか〜?」と訊き込んでのことである。それだけマイナーだったのだ。もっと言えば、その存在と情報量がリニアな関係だった。マイナーなことに関する情報が溢れ返ってる、なんてことがなかった。
 それが今は世界のどこにいてもネットで「別府 野湯」とでもキーワードを打てば3秒で見つかる。無邪気に懇切丁寧な地図まで付けて紹介してるバカもいる。なんと数年前までは別府の秘湯巡りマップにも載ってたともいう。詳しい道順は示してはないものの、おれだって何度かここについては取り上げてる。
 つまり、温泉に関する情報の裾野が昔とは比べようもないくらいに広がり、被害者・犯人のどちらにも容易に知りえるようになったからこそどちらもこんな場所にやってきた・・・・・・そんなことはないだろうか?

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 とまれ、裾野が広がることを敷居が下がることと絶対に履き違えてはいけない。また、何事にあれ裾野が広がるってコトは、それだけヘンなヤツがイージーに多数紛れ込んでくる、ってコトと同義なのだ。そう思ってまぁまず間違いない。

2010.09.12

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