「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
使うてナンボ・・・・・・「床の間」なんてダメよ


何でこれなのかは読んでください。

 「床の間」って言葉をみなさんご存知だろうか?要は趣味性の強い珍しいものを使わないで綺麗なまま取っておくことをさす。言うまでもなく語源は「床の間に飾る」っちゅうことからやね。

 人に他者との差異を求める欲望があり、事物に付加価値が存在する以上、あらゆるものに「床の間」は存在し得る。ギター、自転車、腕時計、アウトドアグッズ・・・・・・と、おれの好きなものにも当然「床の間」はある。いや、むしろ趣味の中では「床の間」が多いカテゴリーかもしれない。この場合の付加価値は希少性とか極端に高価であるとかいろいろだけど、本来的な機能はもはやどうでも良く、その珍しさだけが取り沙汰される。。

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 ガキの頃のもっとも卑近な例としては「ギザジュウ」があった。周囲にコインウェッヂ(ギザギザのこと)の入った昭和20年代の10円玉だ。余談だが腕時計の周囲にギザギザの入ってるの、あれは硬貨を模してある。あとは穴の開いてない5円玉や古い100円玉、100円札なんかも人気があった。今は銀色時代の500円玉が小学生に人気あるらしい。

 切手なんかも「床の間」の古典の最たるものであろう。未使用の方が使用済みより高いし、シートの方が1枚ものより価値があるとされることからも容易に「床の間」が尊ばれるコトが伺われる。今でもあるのかどうか知らないが、昔は切手を扱うコインショップに行くとビニール袋にギュウギュウに入った、葉書や封筒から切り抜かれたままの使用済み切手がタダ同然で買えた。ま、大半はどうでもいいヤツなんだけど、たま〜に年賀切手や記念切手がちらほら混じってる。それをピンセットでつまんでヤカンの湯気に丹念に当てて剥がすのだ。小学校の初め頃だったろうか、おれもクラスの連中と競うようにせっせと買った時期があった。
 こうして布張りのコレクションブックに貯まることは貯まるが、若干の悲哀も伴う。言うまでもなくあまり珍しくもないものな上に全部消印があるからだ。「月に雁」や「見返り美人」なんて間違ってもない。消印の入り方でも格の違いがあって、全面に入ってるのは図柄が汚されることになるからダメで、隅っこにチョロッと入ってる方が喜ばれた。

 クダらない所では「牛乳瓶の蓋」ってーのも流行した。小学校2〜3年くらいだったと思う。これは元手がかからず、しかし珍しいのにはナカナカ出会えないってハードルの高さと、机の上でペッて吹いてベッタン(メンコのことね)みたく引っくり返すのが流行ったのもあって、かなりみんな熱中した。交換レートも存在した。
 ところが、夏休みが終わってしまうと一気にみんなの熱は冷めてしまった。理由は簡単、みんな田舎に帰った折にその近所で見境なく集めたもんだから、珍奇なものだらけになってしまったのだ。夏休み前には1枚で10枚分の価値のあったものでも、富田林界隈のモノでは見向きもされなくなった。それに珍奇なものもみんなそれぞれにあちこちの地方のものばかりなので、交換レートが成立しない。和歌山の牛乳の蓋と滋賀の牛乳の蓋では比較のしようがないのだ。
 こうしてバブルのみならず通貨までが崩壊したのであった。そのうちみんなパックに取って代わられ蓋そのものが珍しくなるなんて、その時は誰も予想だにしなかったが・・・・・・。

 そうしてやってきたのが空前のプロ野球カードと仮面ライダーカードのブームである。もうホンマ熱中するヤツはトコトン熱中してた。肝心のスナック菓子を食べもせず棄てるってな現象まで起き、新聞の三面記事を賑わす社会問題にさえなった。
 珍しいたってアテモンのあたりと一緒で、そぉゆうカードは初めっからメーカーがちょびっとしか入れてないに決まってる、と喝破してた側にいたおれは、いささかバカらしくて加わることはなかったけれど、思えば今の様々なカードでキラだとかレアだとか騒ぐガキの源流はあの辺にあることは間違いない。

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 そんな連中が大人になった今、「床の間」が大流行になるのは当然の帰結であったと言えるだろう。まぁ、自分だけの宝物を欲しがる自己愛だらけの脆弱な人格が増えたのもあるんだろうけど。

 誰もが当然のように希少価値を求めている。はぁ〜い初回限定ですよ!はぁ〜い**との限定コラボですよ!はぁ〜い今年のイヤーモデルですよ!・・・・・・全て完売・完売、越の寒梅だ。でも、このようにメーカー主導で、初めから付加価値つけることだけが目的で少数作られたモンは、ナンボのもんぢゃい!?と思いつつまだ許せる。カードだとか切手だとかのチンケなのも純粋に蒐集が目的なのだからOKだわな。

 ここら辺からが問題なのだが、面白いことに現役商品のときはサッパリ売れんかったのに、カタログ落ちした途端「幻の」なんて煽り文句が付いて中古市場が活気付くなんちゅう現象まである。
 ギターを例に挙げるなら、1958年型のフライングV(発売当時はあまりの不人気で何と50本くらいしか作られなかった)みたいにムチャクチャ希少価値の高いモンならいざ知らず、ちょっと前までそこそこフツーに見かけてたフェンダーのサイクロンなんてぇのが猛烈にバカ高い値で取り引きされてるの見ると、何だかもう開いた口が塞がらなくなる。いやもうホント、ヨンッキュッパ!でどこでも買えたんだわ。現役の時には見向きもしないでさ、チャッチャと買っとけよ!!って・・・・・・あ、おれのことか(笑)。

 そしてみんな特に使われることなく仕舞われてしまう。これを死蔵と呼ぶ。今ならデッドストックと言った方が通りが良いかな?実に馬鹿げた話である。

 希少価値をおれは徒に否定する気はない。世の中には本当に珍しいが故に貴重なモノがある。そもそも経済の基本の一つのゴールドにしたってそうだ。決して錆びず輝きを失わないことに加え、有史以来採掘されたその量は、僅か25mプールに数杯程度しかないのである。ダイヤモンドもだな。
 先のフライングVに加えてエクスプローラー・モダーン・フューチャラなんてのもまずまずそれに属するだろう。絶対的な数が殆どないのだから。数ないもんはそらしゃぁないわ、金庫にでも大事に鍵掛けてしもといてんか。
 しかし、さほど希少価値があるようにも思えないフツーの工業生産品たる「道具」がちょっとした理由で「床の間」に祭り上げられちゃってるのはおれにはどうも我慢できない。癇に障る。

 だからおれはガンガン使い倒す。良いものであればあるほど使いまくる。

 数年前に買ったゼニスのエル・プリメロだってほぼ毎日身に着けている。勘違いしてもらっては困るが、決して粗末・乱暴に扱っているワケではない。定価だと50万円を優に超える腕時計である。とても大切にしている。それでももうかなりメタルバンドは延びてしまったし、ベゼルに小傷は入りまくりだ。
 ギターには5万円以上使わないのをモットーにしてたおれにしては清水の舞台から飛び降りるような気持で買った・・・・・・っちゅうたら大袈裟すぎだが、まぁそれでもそれなりに何軒も店回ってジックリ吟味して買ったフライングVにしたってバシバシに弾き倒している。肘やストラップのあたる部分は塗装が剥げて来たし、ボディ裏にも傷は入ってるが、ネックやブリッジ、オクターヴの調整、指板磨き、小まめな弦の交換等は普段からシッカリ行ってコンディションは維持している。つまりこれまた大切にしているのだ。
 自転車はそこまで財力が続かず、今は安価な品だけれど大切にしてるし、今後たとえフレームだけでウン十万!みたいなん買ったとしても恐らくおれはフツーに乗りまくるだろう。もちろん整備はチャンとして、だ。

 道具は使うてナンボ、なのだ。
 所詮道具なんだし、という軽んじる気持ちはサラサラない。むしろ、作り手がそれなりに心を砕いて拵えたものであるからこそおれは徹底的に使う。作り手の思いを掬い取るには使うしかないではないか。上等の利尻昆布や本枯れの雄節は実に貴重品だが、出汁取らなきゃ単なるガビガビの乾物で意味がないのと一緒だ。大切に一番出汁、二番出汁と取って、それでも捨てずに最後は細かく刻んで佃煮にする。とことん余すところがない。これが道具の正しい使い方だ。
 能書きや薀蓄ばかりで道具を勝手な付加価値まみれにした挙句、仕舞い込んで一向に恥じるどころか疑問を抱くことさえない連中の鈍感や強欲をおれは心の底から軽蔑する。その伝では昨今流行りのネットオークションなんてグロテスクの極みだわ。

 「床の間」なんて道具にとって不幸なだけだし、それを産み落とした作り手の情熱を莫迦にした行為だ。


再発売モノかも知れないが、Gibson"MODERNE"

確信犯的「床の間」のコルナゴのフェラーリモデル。200万円也!!

2009.10.13

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