「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
再会


遠い昔の話になりました。

 ・・・・・・さてさて、どこから書いたものか?

 極私的な話を安っぽく盛り上げたって仕方ないから、まずはここまでの事の経緯をまとめるところから始めることにしよう。

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 去年の夏だった。おれは大昔にやってたバンドの初代ベースだったMについて、もう20年くらい音信不通になってしまってることを書いた。何せ最後に会った20代当時の彼は所謂「バリバリの活動家」で、あまつさえフィリピン行くなんてゆうてたモンだから、ぶっちゃけあるいはもう生きてはおらんのんではないか?ともその時は思ってた。

 しかし、書きあげて文章に細かく手を入れてる内に(めんどくさがりのおれの悪い癖で、いつもサイトにアップしてから泥縄式で推敲を始めるのである)、やっぱしその後の消息がだんだん気になって来て、おれは行方を探してみることにしたのだった。なーに、興信所雇うとか金のかかるややこしい話ではない。フルネームでネットで検索してみただけである。
 実は過去にも同じ手で何度か探してみたことはあったのだが、見事に手がかりに繋がるようなモノは何もヒットしなかった。匿名性ゆえ、よほどの有名人でもない限り、ネットの世界は本名で探すのがけっこうむつかしいトコなのだ。

 相変わらず中国のサイトばかり引っ掛かるやんけ!前もこんなんだったけかな。おれたち日本人からしてみれば、合理化されすぎて記号みたいになった漢字の羅列ばっかしで良く分からないけど、これらは全部違う。パスパス。さらに検索結果ページを繰って行くと今度は先生の名前で出てくるが、まさかなぁ〜・・・・・・ってな調子で見て行く。何せ初めから望み薄だと思ってるから、エロ系やディープ系を探す時のような必死さにはいささか欠けていたのが正直なトコだ(笑)。スマン。

 ・・・・・・と、とある新聞記事に行き当たった。地方紙の小さな記事だった。日付は春ごろになっている。あまりここで詳しく書いて本人および関係者に差し障りがあってはいかんので、モザイク加工して思いっきりボカすことにするが、要はまぁ、地元のある種のボランティア団体を取り上げた記事だ。そこには名前だけでなく年齢が出ていた。おお、年齢的にもだいたい合致しとるやおまへんか。
 今度はその団体名で検索。すぐではなかったけれど、それらしいいかにも手作りっぽいホームページを発見。ダブルミーニングになった名前のセンスが何となく彼っぽく思われた。そこには事務局宛てのメールアドレスも出ている。

 こうして手がかりらしきものが見つかりはしたものの、いざっちゅう段になって果たしてメールを出すべきかどうか、おれはケッコー躊躇したのである。

 一つには当然のことながら、誤爆だったらムチャクチャ恥ずかしい、っちゅうのがある。そしてもう一つは----こっちの方がむしろ大事なのだが----もしアタリだったとしても、当人が旧知の人間が近寄ってくることを嫌がったり迷惑に感じる、ってのがあり得るだろうってことだ。ケースは違うが、松本清張の有名な小説「砂の器」だってそんな話やんか。
 正直、日本っちゅう国は思想活動に対して冷たく、厳しい。元ヤンキーとか元ヤクザに対するよりもよっぽどその仕打ちにはムゴいものがある。そんなんで、かつてブイブイ言わせてた人が過去の一切合財を封印して隠者のように暮らしているケースをおれはいくつか知っている。もしそうだとしたら、不躾なメールなんて過去からの亡霊に他ならないだろう。

 数週間の逡巡があって、結局おれはメールを出す方を選んだ。ちゃうかったらちゃうかったでしれーっとスンマヘンで済ませば良いし、ホントに本人がイヤなら「それは私ではありません」とか何とか書いてくるだろう・・・・・・と、いつもながらの我儘なオプティミズムが自分の中で勝ったのである。ともあれ、メールは全くおれには似つかわしくない他所行きの言葉で丁寧にしたためた。

 すぐに返信。やはり、と言うべきか、なんとまぁ、と言うべきか、M本人だった。チャンと生きており、いつの間にか日本に帰って来て、その地方に生活の根を張ってたのである。ネットの力は実に恐るべきものがある。ついでに言うならシンクロニティはやはり存在するのかも知れない。

 交流が再開した・・・・・・ま、お互い今は仕事に忙しい身の上、メールのやり取りだけだったが。

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 1年経った今年の9月、夕刻で帰宅するリーマンで混み合う上野駅改札附近、おれは所用で東京に出て来てしばらく滞在するというMと待ち合わせていた。何と彼、山谷に泊まるのだという。
 言うまでもなく、山谷とは大阪・釜ヶ崎、横浜・寿町なんかと並んで全国的に有名なドヤ街、岡林信康が歌にしたあの山谷である。近年は相変わらず簡易宿泊所は多いとはいえ、ずいぶん雰囲気は様変わりして、かつてのニコヨンのオッサン連中の吹き溜まりから外国人のバックパッカーが集う街へと変貌を遂げてるらしい・・・・・・って、激安宿であることには変わりないやんか!(笑)。恐らく以前、支援活動かなんかで長期滞在したことがあるのだろう。

 顔合わせるまでもなく「全然変わってないだろうな〜」と云う予感が何となくしていたが、現れた彼はやはり変わっていなかった。おつむがいささか寂しくなったのはお互い様として、長身痩躯を少しばかり前かがみ気味に歩く姿は昔のままである。もちろん、メンタリティも。

 おれたちは早速呑み屋に入って再会を祝し、旧交を温めたのであった(・・・・・・何ちゅう陳腐で月並な言い回しとは思うが、簡潔に述べようとすると他に言いようがないのだな、これが)。ともあれ、温泉に入ったくらいしか特筆すべきことのない歳月を送って来たおれに対し、波瀾万丈の彼の話は実に面白かった。驚いたことには語り口さえもが面白かった。元々あまり感情を込めず、余分な修飾を省いたいささか事務的とも言える語り口が特徴だったのが、そこにある種の漂白されたような飄軽さが備わっていたのである。
 ・・・・・・とまぁ実に面白かったのだが、その内容をここではちょっと書けないし、それにおれが書くべきでもなかろう。どだい書こうにも途中からグニャグニャに酔っ払ってしまって細部を忘れてしまっている。
 いつか本人が書いて出版でもすればいい・・・・・・万人受けするとは思えないが(笑)。

 数日後、再びおれ達は飲んだ。猛烈に狭苦しいライブハウスで、ダラダラ繰り広げられる轟音セッションのおかげでほとんど会話にならなったが、例によって例の如くおれは泥酔してたし、別にそんなことはどうでも良かった。旧い友人が無事に生きておって、また酒が一緒に飲める。それを単純に僥倖と喜ぶ、それだけでいいぢゃねぇか。

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 以上で終わりかよ!?もうちったぁドラマチックな話ないのかオメェよぉ〜!?と読者諸兄には突っ込まれそうだが、掛け値なしにこれだけである。そんなモンだ。君子かどうかは知しらねぇが、「交わりは淡きこと水の如し」っちゅうモンなんだ。そぉいや水の如しで酒井法子は如水会館で保釈の記者会見開きやがったな。ドロドロした繋がりだらけで如水とはナカナカ洒落が利いてるで。

 ・・・・・・閑話休題、少々後日譚を。

 その時、話が盛り上がったのをきっかけに、「ACID」を共通インフラとしてファイル交換をしながら現在、双方で曲を作成中である。どうにもこれまで一人では億劫だった音楽だけど、彼との再会のおかげでおれも重い腰が上がった。MはMで軽いので有名なヤマハのベースを新たに買ったという。実にこれがもうヤル気なのである。
 双方のアイデアを持ち寄ったらアッちゅう間に4つくらい曲らしきものができた。もちろん、これをマトモな恰好に仕上げるにはそれなりに時間がかかるのだけれど、音質だけ見れば80年代自主盤からすれば遥かに高品位なモノが、ものすごい距離を介していてもまったく手間要らずにガンガン作れる。いい時代だと思う。

 しかし、ちゃんとした形の作品になるかどうかは、目下のところまったく不明だ。そもそも良く考えたら二人ともミックスダウンからマスタートラック作成までの流れをまだよく知らないのだった・・・・・・。

2009.09.20

----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
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