「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
花火が映し出すもの(2)


たしかに綺麗だ。

http://image.blog.livedoor.jp/tosacsci/より
 おれは花火、ことに夏の夜を彩る巨大な打ち上げ花火が大好きだ。あれだけはどうしても個人ではできない。なにより値段がムチャクチャに高い上に、危険物取り扱いだかなんだかの免許を持ってないと売ってもらえなかったりする。

 実は昔、大阪の松屋町の花火問屋に大量の花火を買い付けに行ったことがあった。ガラスケースの中には、梨から小玉スイカまでくらいの大きさの打ち上げ花火も色々置かれてあったが、どれもいい値段がした。これを上げるにはそれなりの機材が必要だろうから最初から諦め、太さ1cmほどの筒を30本ほど束にしたような小ぶりのを買おうとした。それはせいぜい30mほどの高さに連発で上がるだけのショボいモノだったのだが、そんな程度でも店のジーサンに阻止された。火薬量の関係でダメなのだという。厳しいのである。
 仕方なく、ドラゴンの類の吹き出し花火を千発ほど買って帰って、みんなでネチネチと仕掛花火をこしらえた。30cm、横幅1間に切った細長いベニヤ板3枚にビッシリと貼り付けられたそれらは、予想通りの凄まじい逆ナイアガラとなって火の壁を作ってくれた。

 実は今、これを書いてる最中も、遠くで花火大会が開催されているらしく、遠雷のように低く、幽かに打ち上げる音が聞こえていたりする。まぁ、ベランダから見てもどうせ1円玉くらいの大きさにしか見えんだろうが・・・・・・ああ、そぉいや郷里では今日はPLの花火大会が開かれてるはずだ。あのバカバカしいほど無節操にボカスカ上がる花火も随分久しく見ていない。

 そう、ガキの時分からあれ見て育ったオカゲで、おれはいわば花火大会アパシーっちゅうか不感症っちゅうか、少々の規模では驚かないトコがある。そりゃ〜、打ち上げ数だけですべての価値が決まるとは思わないが、関東に越して来て、有名な墨田川の花火大会でさえ2万発程度と知ってずいぶんガッカリしたものだ。そんなもんかい!?と。
 かつては公称12万発を誇ったPLのあの途方もないスケールからすれば(余談だがカウント方法を近年少なく取るように変えたらしい。この計算法だと上記墨田川は数千発となる)、どうにもこうにもショボく思えてしまったのだ。ハハ、やっぱ俗物だよなぁ〜、おれって。

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 今や花火大会は日本中で行われるようになった。この20年くらいで各地の開催数は増加の一途をたどり、花火屋さんはウハウハだったらしい。実はこの傾向は世界的に見てもそうで、高い技術力を誇る日本の花火師は世界中から引っ張りだこだったのだという。
 現代のマトモな規模の花火大会の打ち上げはほとんどがコンピューター制御で行われている。風力・風向による煙の滞留等を緻密に計算しながら、間断なくどれを次に上げるかを決めるのは、とても人力作業では追いつかないのである。玉そのものは昔ながらで1個1個手作りかも知れないが、仕掛けにはITを駆使した、古典とモダンの融合とも言える日本の誇る産業なのだ。

 「だった」と過去形で書いたのにはワケがある。昨年末からの猛烈な不景気のあおりで、増加する一方だった花火大会にも急ブレーキがかかったのだ。来年以降は中止せざるを得ない大会が数多くあるらしい。そりゃそうだ。ちっこいのでも一万円とかヘーキでするのだから、いささかでもらしい内容にしようとすればアッちゅう間に数千万から億単位のカネが買ってしまう。
 元手が何で賄われるのかと言えば、言うまでもなく企業からの寄付金である。企業からの金をアテにしてるのは政治家や税務署、社会保険庁ばかりではない・・・・・・っちゅうか、一番タチが悪かったりするのが町内会であるとか、学生会であるとか、まぁ「ナントカ実行委」等と名乗って、ロクに名刺交換の礼儀も知らないでやって来るローカルかつド素人なイベント企画団体だったりするのだ。

 言うまでもなく、彼等に幾許かの金を包んでも宣伝効果なんてモノは欠片もない。せいぜい申し訳程度の3行どころか1行広告がパンフレットに載ったり、花火大会なら企業名が一瞬読みあげられて、それだけ。つまりは体のいいタカリに他ならないのだが、それでもまぁお付き合いだし気まずくなるのもイヤだしぃ〜、ってコトでこれまでは不承不承、大企業から個人商店に至るまで、額の多寡はともかくお金を出してきた。

 それがもう逆さに振っても出せなくなった。今回の不景気はかなり根が深い。前のバブル崩壊の時にはまだ切り詰められるものが残ってたが、今回はそれらを切り詰めに切り詰めた後に襲ってきたのだ。もうなりふり構ってられんのである。
 それに大体、こんなにも花火大会が粗製濫造されるようになって、同日で近所で開催がカチあったりするようになると、観客動員数だって割れてしまう。近郷ではここしか花火大会がない、っちゅうのなら人がウジャウジャ押し寄せそうな気もするし、まだなんとなくあるはずもない宣伝効果の謳い文句に騙された気になってやっても良いかも知れないが、今じゃ週末ともなるとあっちでもこっちでも花火がポンポン上がってるのだ。誰のためにこの企画が存在するのかだんだん分からなくなって来るではないか。バカバカしくて協賛金なんて出してられないよね。

 轟音と共に一瞬で消える花火も儚いが、その大会の経済的なバックボーンそのものが脆弱で、とても儚い存在だったのだ。

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 そのような世知辛いカラクリはさておき、観客達は夜空の下で童心に帰って目を輝かす。若者、特に中高生にとっては金がかからないワリにドキドキできてデートにうってつけのイベントだ。実際に行ってみるとそらまぁ暑いわ混むわ蚊には刺されるわトイレはあらへんわ、ヘタすりゃ突然の夕立にやられるわ・・・・・・とかなりの難行苦行なのだが、精一杯のオシャレを決めて、色んな期待をもって出かけて行く。かつてのジッタリン・ジンの曲にあったみたいに。
 AだのBだのCだのと首尾よく○○して××してならいいのだが・・・・・・って親の身としては少々タマランか(笑)、花火大会が初デート、みたいな若者の恋が実ることは案外少なく、これまた儚いことが大半だろう・・・・・・キミが瞳を輝かせて見つめてたのはボクぢゃなくて花火だった、と(笑)。
 ま、そもそも一緒に出掛けて行く機会にさえ恵まれない人には儚いもヘチマもホチョチョもないんだけどね(笑)。

 もし打ち上がって1時間とか2時間とか開いてる、まるでライトアップされた観覧車のような花火があったとしたら、それはちょっとも面白くないに違いない。数秒の内にまばゆい光芒を放って、二度と再生不可能な一生を終えるからこそ、あるいは泡沫のように次々と上がりはするものの、せいぜい1時間少々で元の黒々としただけの空が残るだけだからこそ、花火は胸を打つ。

 畢竟、打ち上げ花火は夏の酷薄さや不毛、そしてそれゆえのたまゆらの切なさの象徴である。

 先日、家庭内でプラネタリウムのようにして楽しむヴァーチャル打ち上げ花火キットが売り出された、と報じられていた。一体どれだけ売れるのかは分からないが、万一こんなんがヒットするようなことがあればまっこと世も末だと思う。プログラムで何度でも幻燈仕掛けで壁の上に再現可能な「花火」なんて、それは味も素っ気もない光の輪っかの模様・ガラに過ぎない。
 何より草いきれ、川を渡る風、さんざめく人々、腹に響く音、驟雨のような音を立てて降り注ぐ燃えカス、腰に提げられた蚊遣の匂い、汗の匂い・・・・・・そういったリアルあってこその花火ではないか。

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 夜空に次々と広がっては消える大輪の花は、その一瞬だけ見ればたしかに華やかは華やかだ。けれど一方で、どこか終末の予感のような、どこか暗く沈んで妖しいものを秘めている。

 井上靖の小説だったか、晩年に至って群青色の色を出すことに腐心する花火師が出てきたような記憶がある。それは何だかとても分かる気がする。打ち上げ花火の発色が行きつく先は実は、明るく眩しい赤や黄色やオレンジではなく、限りなく闇に同化して溶け込むような暗くて仄かな寒色なのだろう。

 恐らくその色は鬼火の放つ色と同じに違いない。

2009.08.02

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