「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
オカルトの耐えられない軽さ


現代怪談本の金字塔「新耳袋」(取り上げたのは第九夜)。祖父江慎の装丁も秀逸。

 冒頭にまず申し上げるならば、おれは幽霊存在論者だ。過去に見たことがあるとかそんなんもまぁあるんだけど、もっと理由は簡単なコトだ。

 ・・・・・・いないよりはいた方が楽しい!!

 ガキみたいだと我ながら思うものの、いやもう実際それだけなのである。同じ伝でUFOも、UMAも、超能力も、奇蹟も、カミやホトケもあった方が世の中楽しいと常々思ってる。暗闇や影のない世界、全てが数字やデータでもって合理的に立証可能な世界なんてそんなん、無味乾燥としていて詰まらないことこの上ないではないか。見えないものを認めない態度は、おれにとっては傲慢なことに思える

 ただ、MysticismstやOccultistの常として、合理的な考察をすっ飛ばして何でもかんでも安易に怪力乱神の仕業としてしまうところはどうにもいただけないと思うし、その思考停止ぶりにはいささかの反感がある。郵便ポストが赤いのも電信柱が高いのも、みんなユーレイのせいなのよ!では残念ながら物事は進まなくなってしまう。また、「三遍探して人を疑え」ではないが、いろんなオカルトに対して狷介な姿勢をまったく持たないと、新興宗教に代表されるような恐るべき陥穽がしばしば待ち受けていることも忘れてはならない。

 でも、オカルト話が「恐怖」っちゅう感情を軸にしながらとてつもなく豊穣な世界を有しているのは疑うべくもなく事実だ。読んでも、聞いも、語っても・・・・・・敢えて語弊を恐れずに言うならばとても「楽しい」のだ。そんなネタ、オカルトの他に他にちょっと思いつかない。恐怖の根っ子にある「ワケの分からなさ」は、あらゆる物事が合理的に解明されればされるほど希求されるものだろうと思う。

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 だからおれのささやかな書架にはいろんなオカルトネタ本がある。ミリオン出版あたりの500円玉ワンコインの露骨に胡乱なゾッキ本もあれば、もちょっとは語りに面白さのあるマトモな(?)ものまで、それだけで3ケタを優に超える数が並んでいる。

 オカルト本の常として、その文章は平明である。もし哲学書のように難解で晦渋な怪談本があったとしたら、バクシーシ山下のAV並みに困りモノだろう。どんなけそれが身の毛もよだつ恐ろしい話でも素直に恐怖に没入できないどころか、まずストーリーがサッパリ分からない。明快な起承転結、盛り上がり、オチといったものがコンパクトにまとまっていなくてはならないのである。だから同じように大長編怪談なんちゅうのもあったら困るだろう。全5巻とか、途中に伏線張りまくりとか、登場人物100人とか(笑)。

 ・・・・・・そんなんだから、怪談本はあっと言う間に読了することができる。有名な「新耳袋」なんておれ、一気読みどころか一晩で3冊続けて読めた。ちなみにあれ、1冊100話で始めはやるツモリだったのが一気読みすると怪異が起きるので敢えて99話にした、とか巧みな口上が述べられてるが、残念ながら何一つ起きなかった。見事なくらい何一つ(笑)。
 ともあれ、この読みやすいってことは小遣いの少ない中年男にとっては、いささか金の遣い方として勿体ない。オマケにどんどん本棚もふさがって行く。怪談よりこっちの方がよっぽど恐ろしいことかも知れない。

 おれが買い込む以上にオカルト、ことに怪談系の本は本屋の一角を占めるほどに出されている。何せ短編ばかりだし、本にしやすいのかも知れないが、何よりそれなりに堅調に売れるのだろうと思う。驚くべきことに専門の雑誌まである。元祖は水木しげるまでフィーチャーして総合誌(!?)を目指した「怪」だったと思うが、今は怪談に特化した「幽」なんちゅうのもある。それなりに大きなマーケットが形成されているのだ。

 本のことばっか書いたけど、言うまでもなくネット上にも有象無象のオカルト・心霊といったテーマのサイトは溢れている。パクリネタばっかしな挙句、ヴィジュアル的にも稚拙極まりない箸にも棒にもかからないようなクズから、実話なら驚嘆すべき、そして創作なら舌を巻くべき素晴らしいモノまで。もちろん専門ポータルみたいなんもあるし、ネットリングもある。

 これもホンマ読みだすとキリがない。ハズレは3秒でスルーだが、アタリはついつい夢中になって気付くと日付が変わってたりする。本と違って金もかからず場所も取らないのはやはりネットのいいところだ。

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 こんな風にしておれはいわば怪談三昧だったりしたのだけど(・・・・・・って、おれってホンマ色々多趣味やなぁ〜、笑)、最近になってふと思い至ったことがある。

 それは、巷間溢れる昨今の怪談から、「親の因果が子に報い〜」とか「七代祟ってやる」といった、復讐譚に属するものがめっきり少なくなってるのではないか?ってコトだ。

 大体、幽霊の常套句、「うらめしや〜」だって、本来的には何がしかの恨めしいことがあって、ほいでもって魂魄この世に留まりて〜、なワケなんだけど、どうにも今はその恨めしいが、弱いっちゅうか迫力に欠けるっちゅうか、そこで事故があったとか、ちょっと心霊スポット行って騒いだとか、そんなんばっかし。幽霊となって出る側のハラワタが煮えくりかえるほどの深いルサンチマンが感じられないお話が多いのだ。リングの貞子なんてその点ではむしろ古典的な印象だな。
 どちらも創作だが「真景累ヶ淵」にしたって「四谷怪談」にしたって、そんなけ酷いことしてんからそりゃ相応の報い受けて当然やで、っちゅう因果応報の予定調和があるのだが、どうにもこうにも現代の怪談における怪異の体験者にはそれがサッパリない。まるで偶然珍動物を見たかのような、ただの遭遇者なのである。それは、怪異を体験する者にはその怪への責任がない、とでも言わんばかりの・・・・・・あ、因果応報パターンもあるにはある。心霊スポットに肝試しに行った、だ。でも、その程度だ。

 そこにはもちろん、死が日常から綺麗に消し去られ、特殊な事象となり、そして地縁や血縁といったものが希薄になった現代人の暮らしぶりがそのまま反映されてるのだろう。七代祟ろうにもアータ、子供はみんな独立して東京や大阪てな遠い所に行っちゃった。オマケにロクに帰省はせぇへんわ、オッサンは単身赴任でそのヨメは不倫で家は空中分解してて、ガキはグレてヤンキー一直線だとかだと、怨んでる方も呆れ果てて祟る必要感じないとか(笑)・・・・・・ああ、そんなんもみんな霊障でっか、そうでっか。

 もちろん、怪談の古典にもおれが言ったような現代の怪談と同じ構造のものはあって、有名なところで小泉八雲を例にとると、「むじな」においてのっぺらぼうに二段落ちで驚かされる主人公は完全に単なる不幸な被害者だし、「幽霊滝の伝説」は今で言う心霊スポットに無謀にも出かけてってエラい目に遭う若者のパターンだ。
 ただ、これらが収められた作品集「怪談」と「骨董」が、他にひじょうにヴァリエーションに富んだ多彩なストーリーから出来上がってるのに較べると、現代の怪談は上記2つのパターンがあまりに大勢を占めているように思える。
 そりゃ〜世の中たいていはいい人ばっかりだから、自然とたまたま遭遇型のストーリーが増えるのはやむを得ないとしても(そぉいやおれの過去の体験もこのパターンばっかだ)、それにしても飽きもせず偶然の怪異に出くわした話が次から次に大量に生み出され、そしてそれを支える読者が多い、っちゅう点がおれには引っ掛かったのだ。

 おそらく、復讐譚としての怪談、情念ドロドロの濃密でヘビーなストーリーは今は好まれず、流行らないのではないか、って思う。そぉいや貞子だってそのオバケとしての成り立ちはルサンチマンにあるものの、その後TVの中からえっちらおっちら出てきてやる相手はっちゅうと、縁もゆかりもない人ばっかなのだ。なんだか無差別テロみたい。

 「だって仕方ないぢゃ〜ん」とか「アタシは悪くないんだからぁ〜」的な責任転嫁というと大げさだけど、どこか、自分以外にばっか責任を求める主体性のなさが現代の怪談の筋立てを支配している。せいぜい興味本位で心霊スポット探検に出掛けてったくらいが、まぁ責任の範囲です、ってか。

 あまりむつかしく考えても仕方ないのだけれども、現代のオカルト話の持つそのような「自分には一切(もしくはあまり)責任がない」っちゅう根源的な軽みを、無意識のうちにおれも含めてみんな愛しているのではないのか?

 ・・・・・・そんな気がして少しばかりゾッとした。しょうむないオチですんまへん。

2009.07.25

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