「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
文字と向き合うために


何でこれかは読んでね。

 ここは南ヨーロッパの古い町の邸宅の一室。羊皮紙の分厚い本を拡げ、十字架をかざし、聖水を振りながら神父は低く、しかし厳かにラテン語の聖句を唱え出す。今まさに悪魔払いの儀式が始まったのだ。ベッドに横たわるのはつい先日までは美しかった人妻。今は元の面影をすっかりなくして恐ろしい形相となり、汚い罵り言葉を喚き、反吐やらなんか気色悪い粘液を撒き散らす。神父は吹き出す額の汗をぬぐいもせず、一心不乱にラテン語を唱え続ける。悪魔対エクソシストの熾烈な戦いである。
 ・・・・・・と、突然彼女は浮き上がったと思うや、神父の方にゆらぁ〜っと近よってきて、身体の向きを真っ直ぐに変えたと思う間もなくいきなり彼の頭をどやしつけた!パッコ〜ン!

 ----アタタタ・・・・・・
 ----アホォ!そんなややこし呪文、ちょっとも効くかぁっ!ボケェッ!
 ----!?
 ----ノロマな神父のオッサンに教えたるわ!わいの家はなぁ〜・・・・・・
 ----悪魔よ、オマエに家があるというのか?
 ----おお、あるわい。あったらアカンっちゅうんかい!?
 ----・・・・・・ま、まぁ良い、それでその家が何だというのだ!?
 ----わいの家はなぁ〜、「創価学会」なんぢゃぁ〜っ!!

 お後がよろしいようで。チャンチャン♪

 ・・・・・・この後、神父が実はかねて隠し持っていたうちわ太鼓を取り出して「南無妙法蓮華経!」と怒鳴ったかどうかは知らない。なぜならこの話はおれがたった今デッチ上げたものだからだ。ちなみに本当の悪魔払いにおいては、一切の悪魔との会話は禁じられているので念のため。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以前から「言葉にはたして霊力はあるのか?そしてもしあるとすればその力は言語の壁を超越しうるのか?」ってコトに興味がある。上の小咄はそのことを茶化してみたのだけど、実際はどうなのだろう?「馬の耳に念仏」と一方では言われるワケだし、たしかに意味を断ち切られた言葉なんて単なる声帯から発せられる音の響きに過ぎない。問題提起しといて軟調で申し訳ないけど、ホント良く分からない。

 しかし少なくとも、元々は自分の心象世界が投影されたはずの言葉や文字、文章が----いや、実のところあらゆる表現が----いつの間にか自分自身の思考や人格を規定していることはある。取りも直さずそれは自閉のトートロージー、自分で自分に燃料投下、自己暗示・・・・・・いくつも譬え方はあるけれど、つまるところ一種の自家中毒状態である。平たく言うと、暗いコトばっか話したり書き散らしたりしてるともっともっと暗くなってく、ってコトだ。そりゃ〜、諺には「笑う門には福来たる」とあるけれど、大体において表現の原動力なんて暗い情念であることの方が多いから、残念なことに逆のケースは少ない。
 オスカー・ワイルドの有名な言葉に「自然が芸術を模倣する」ってーのがある。「幸福ではなく快楽をくれ」などとひねくれてスカしたアフォリズムを連発した彼らしいが、そのもっとも拙劣な形での顕現がかかる状態なのではないかと思う。

 最近のこの最たる例はやはり秋葉原通り魔事件の犯人・加藤某だろう。異常なまでの筆マメで、いい歳してビンボーくっさい携帯掲示板に鬱屈した気持をヘタすると分単位でひたすら叩きつけ続け、テンションを極限まで上げて犯行に及んだこの男も、もしこんなにも文字と向かい合っていなければ、かくも陰惨な事件を引き起こすことはなかった気がする。そのチンケな顔を見るに、本来的にそれだけの度量がこの男に備わってたかどうかはなはだ疑わしい。

 文字と向かい合いながら自分を保つには、相当タフで覚醒した神経が必要なのだ。日記つけるのがいいことだと能天気に信じ込んでるカテゴリーの人には分かるまいが。

 糊口を凌ぐためならばまだ良いのかもしれない。ゼニ儲け、という明確な目標は精神状態をクリアーにしてくれる。立派な庭付きの邸宅、高級な外車、才色兼備の妻と聡明な子供たち、利発な犬・・・・・・それらのためならどんなけえげつなくスプラッターなホラーも、ビザーレの限りを尽くしたポルノも、無慈悲で冷徹な殺戮だらけのピカレスクも人は平然と創り得るしたたかさを持ち合わせていたりもする。商業主義はだから、決して悪いことばかりではない。
 問題は純粋にそれが対価を伴わない創作である場合だ。失うもののない人間は強い、などと言われるけど、社会的・経済的に得られるもののない創作もこれまた強い。計算・妥協・均衡・斟酌・勘案・忖度・・・・・・言うなれば「社会との折り合い」を一切求めない、それこそ「自由」な表現は、業病のようにタチが悪い。コイツと向き合うのが実に大変なのである。
 ネット社会は表現の自由を身近に、創作をお手軽にしてくれたのは事実だけど、その結果、このような対価を求めない表現者を大量に生み出した。そして、それと向き合うことのリスクに無自覚なまま、結果的に負の感情を加速させ続ける人を確実に増やしている。ITリテラシーの向上、なんてことが言われるが、本当に大事なのはこの点をシッカリ理解させることだと思う。

 おれ!?おれだってもぉグダグダっすよ。神経なんてタフどころか蒟蒻よりも柔らかく、豆腐よりも脆い。だから細心の注意を払ってないと、文章がどんどん暗い方に引っ張られて行ってしまっうのが自分でも良く分かるもん。一杯気分でキーボードを叩いていることが多いのも影響してるだろうが、しばしば負の感情に対する自制心が効かなくなっている自分がいることに気づいてゾッとさせられるときがある。あ、ヤバッ!こらシャレならんで、みたいな。だから・・・・・・

 自分でツッコミいれて自分でボケる。
 上げといて落とす。
 冗漫な言葉遊びやダジャレを挟みこむ。
 おちょくってはぐらかす、誤魔化す。
 無茶なキメ打ちしまくる。

 それら笑いのオブラートは誰のためでもなく、自分のためにだ。おれは陰々滅々とした無限ループに陥りたくはない。だから実はおれの推敲の多くは、そう言った細工の挟み込みに費やされてたりするんです(笑)。最初に書き飛ばした状態では、リズムもノリも表現も硬いわ暗いわでどうしようもない。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 最初の話に戻る。

 「音読すると死ぬ」と囁かれてる詩がある。事実だとすれば、これこそまさに言葉の霊力を実証するものだろう。かなり有名な話なのでご存知の方も多いと思うが、西條八十の「トミノの地獄」という詩だ。彼の第一詩集「砂金」に収められている。


トミノの地獄

姉は血を吐く、妹は火吐く、可愛いトミノは宝珠を吐く
ひとり地獄に落ちゆくトミノ、地獄くらやみ花も無き
鞭で叩くはトミノの姉か、鞭の朱総が気にかかる
叩けや叩きやれ叩かずとても、無間地獄はひとつみち
暗い地獄へ案内をたのむ、金の羊に、鶯に
皮の嚢にやいくらほど入れよ、無間地獄の旅支度
春が来て候林に谿に、暗い地獄谷七曲り
籠にや鶯、車にや羊、可愛いトミノの眼にや涙
啼けよ鶯、林の雨に妹恋しと声かぎり
啼けば反響が地獄にひびき、狐牡丹の花がさく
地獄七山七谿めぐる、可愛いトミノのひとり旅
地獄ござらばもて来てたもれ、針の御山の留針を
赤い留針だてにはささぬ、可愛いトミノのめじるしに

 ・・・・・・で、これを朗読した寺山修司(あ!この人のエピソードこないだも例に挙げたな〜、好きなんですよ)も久世光彦も、その後間もなく死んだのだった・・・・・・ってアータ、二人とももういつ死んでもおかしくないボロボロの状態で、そして薄々自分でも死期を悟ってた時にたまたま読んだだけやんか(笑)。

 ま〜、他愛無い都市伝説の類だが、じゃぁこれを生み出した西條八十自身はどないやねん?っちゅうと、これ書いたのが大正時代の半ば、20代の頃。その後1970年に80近くで大往生するまで、日本を代表する童謡詩人・作詞家・フランス文学者として天晴れ一点の曇りもない----あ、戦時中の翼賛詞で戦後の一時期バッシングされたから、まったくないワケではなかったが----それでも不世出の大家としての一生を送ったのである。
 そう、作った本人にはなぁ〜んもなし。ちょっとくらい何か異変があってもいいのに、見事に、なし。それってやっぱどう考えてもおかしい。納得できないよね?
 ん?それは商業主義で書いたからってか?本人の意思を超えたところでサイキックパワーが詩に宿ったってか?へっ!おれはそこまで現実的にもなれなければ、オカルトに染まることもできないよ。

 ともあれ最後に正直に告白すると、「トミノの地獄」、おれにまだ音読する勇気はない。はい、臆病者なんです、アタシ。

2008.09.13

----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
Copyright(C) REWSPROV All Rights Reserved