「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
孤独を育む場としての家庭


秋葉原の事件現場に雨が降る。

 また、それにしてもとんでもない事件を引き起こしてくれたものである。

 2008年6月8日秋葉原のホコ天で、加藤某ちゅうおそらくは実際は気弱なヲタクがやらかしたことは結果的には戦後の犯罪史に残る大事件であり、その背景、経緯、犯行内容・・・・・・どれをとっても80年代以降の暴発型犯罪を総括するようなものとなったと言えるだろう。
 事件の数日後、たまたまおれは所用で現場を通りかかったのだが、雨の中、路上にはまだチョークの跡がいくつも残されていた。内に溜め込んださまざまな鬱屈したルサンチマンを一気に吐き出すためだけに、その男は遠路はるばる静岡からここまでやってきたのだと思うと、何とも言えない気分になった。歩道の角っこにしつらえられた献花台が花や供物で溢れそうになっていたのが、それだけが悲しい救いであった。

 理由はどうあれ、犯人自身はもうこんだけやっちゃったんだからダラダラ裁判を長引かせることなく、すぐさま文字通りの一刀両断にしちゃっていいと思うんだけど、あまりに事件の背景となるキーワードは多く、事件の構造や時代性を軽々に論じることはできないし、今ここでぶつ気もない。ただ、おれは妙に引っ掛かったのだ。今回の事件の特異なトコはやはり、犯人が自分のいろいろな思いをネット上の掲示板にかなり詳細に書き綴っていたことだろうが、その中の両親に関する記述、また、事件直後から数々のメディアが暴き立てた(囃し立てた?)、両親や家庭の様子が・・・・・・

 ・・・・・・おれんちの環境と似てたのである。

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 我が家の諸悪の根源は父親であった。家の中は彼の高踏を気取ったペダンティックなリゴリズム(厳格主義)に蹂躙されていた。実態はそのように薄っぺらなものでも、家庭という外界から隔絶された世界では平伏すべき暴君の振るう強権だ。

 おれの家にはゲームがなかった。一過性でクダらないし、教育上宜しくないからだそうだ。人生ゲームあるいは野球盤、レーダー作戦ゲームといった、当時、小学生のいる家庭ならほぼ間違いなくあったポピュラーなモノさえもなかった。唯一あったのはトランプと将棋だけ。どちらも「長い歴史に支えられた知的な遊びだから」との御高説を垂れていた。それなら麻雀の方がはるかに歴史もあり知的だが、あれは下賤なものらしかった。バカぢゃなかろうかと今では思うが、大真面目に彼はそう言ってた。それで一体おれに何をしろというのだ?

 おれの家にはフツーのおもちゃがなかった。ゲームと同じ理由である。あったのは以前ネタにも取り上げた分不相応とも言えるHOゲージのセットとレゴ。これらは上流階級のものであり長く使えるものだから、OK、と。書いててアホらしくなってくるがマジもマジ、真剣に父親はそう考えてるのだから仕方ない。
 しかしそんなのも幼稚園までで、小学校に上がってからは唯一、工作の香りのするプラモデルだけが許された(これもあまりに没頭したので後に禁止されたが)のと、親戚から貰ったマッチボックスのミニカー(ミニカーは鉄道模型と同じで精巧なミニチュアールであるから良いものらしい、笑)が何台かあるだけだった。ヒーローもののなりきり道具みたいなんとか任天堂躍進のきっかけとなった電子銃だとか、持ってるヤツがおれはうらやましくてうらやましくてならなかった。

 おれの家には・・・・・・って、ここまで書いたらお察しだろうが、当然の如くマンガがなかった。無論、週刊誌も単行本も何もかも買うことは禁じられていた。あの頃はそれでも大らかな時代で本屋での立ち読みが自由だったから、それでおれは大いに救われていた。今のようにビニールで密封されてたら、友達との回し読みくらいでしか読む手段はなかったろう。
 あ、そうだ!買ってもらったマンガがなくはなかった。少年倶楽部復刻版の「冒険ダン吉」と手塚治虫「ブラックジャック」(ただし1巻目だけ、笑)だ。父親の度し難い俗物性が良く表われた巧みなチョイスである。

 おれの家ではNHK以外のTV番組はすべて下品で俗悪なものだった。どうでもいいような連想ゲームだとか、大河ドラマとか、今思えばすごい番組だったと思うが新日本紀行とか、ニュースとか、そんなんばっかし。実は小学生のうちは少し民放も自由に観ることができたが、それでも父親が帰って来ると直ちにチャンネルは回されるか、スイッチは消されるのだった。だからおれは当時の8時以降のドラマにまったく疎い。中学に上がると今度はTV観ることそのものを禁じられた。だって押入に仕舞い込んでしまうんだから手の打ちようがないわな(笑)。

 おれの家では泊まりがけの旅行に一度も行ったことがなかった。数年に一度、墓参りで三重の山奥に帰るだけだ。旅館に泊まるなど、小学校5年に吉野の山奥、洞川ってトコへの林間学校での体験が初めてだった。貧しかったっちゅうのもあるだろうが、食うに困るようなことはなかったから捻出すればできないことはなかったハズだ。要はそのような行楽や歓楽にウツツを抜かすなどあってはならないことで、そんなモン、一戸建て買うための蓄財の妨げにしかならなかったからである。

 おれの家では原色の派手な服、殊に赤は禁じられていた。別に牛を飼ってたワケではない。何だかゴチャゴチャ言ってたが要は赤は煽情的で不良の色であり、そもそも服になんて金を使うのは浪費以外の何物でもない、ってコトらしかった。一度だけ歯向かってこっそり赤いTシャツか何か買って隠し持ってたが、見つかった途端にそれは破り捨てられた。オマエが牛ぢゃねぇのか?カッカしやがってバカが。
 当時流行したハワイな柄のバックプリントなんか論外、ジーンズでさえいい顔されなかった。ぢゃ、何着るねん?ってコトになってしまうが、結局、あの男が期待してたのは一日中学生服を着ている状態だったのだろう。戦前のガキかよ。

 おれの家では勉強にはどうゆうワケか分厚い参考書ばかりが買い与えられた。不思議と小学生の間は塾を強制されなかったのだが、それは「オマエはアタマが良いのだから塾など行かずとも良い」なる理解不能なまでに思い上がった珍理論によるものだった。それにしても何で問題集ではなく参考書なのか?・・・・・・これも実に愚かしい理由による。詳しく書いてあって、分厚くて、エンサイクロペディア的に偉そうな権威がそこに感じられるだけでなく、一度やってしまったら終わりの問題集と違って長く使えるからだ。
 言うまでもなく実戦に役立つのは問題集の方である。大体、参考書なんて問題のすぐ後ろに回答がいやらしいほど丁寧に書いてある。目の前に答えがあるのに真面目に考えて解くワケがない。おれはこんなことしても何の役にも立たないと思いつつ、やらないとこっぴどく叱られるモンだから丸写しばかりしてた。もちろん、無理やり受験させられた私立中学は不合格。落胆してたのは暗愚な父親一人だった。

 ・・・・・・ハタから見れば単に躾に厳しく教育熱心な家だったのだろうが、実態は吝嗇と、それをもっともらしく糊塗するための萎びて滑稽な矜持だけが支配する、実に薄気味悪い家だった。新興宗教にハマっているような、嘘の清浄のいかがわしさ・おぞましさがあった。

 大きくグレることもなく、発狂することもなく、ましてやこのグロテスクな男を殺すこともなかったおれの忍耐強さを誰か褒めてくれんかなぁ〜、と真剣に思う時がある。

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 だからっておれは少しもこの秋葉原の事件の犯人に同情する気はない。共感もない。実のところ社会の最小単位とも言える家庭こそが、子供の人格形成に暗い翳を落とす一番の場であることはちっとも珍しいことではない。いろいろ書き立てたけど、同じような育てられ方をした子供はこの世にゴマンといるのだ。現に彼の弟はごくフツーに真面目なサラリーマンをやってるとゆうではないか。おれはむしろ弟の方が突然おかれた悲惨な境遇に同情するな。

 残念ながら、プライヴァシーの名の下に隣近所や村落といった社会の紐帯が薄れ、核家族化によってますます個々の家庭があたかも鎖国状態の小さな秘密国家に陥っている中、歪んだ親の下に生まれ落ちた子供はどうしたって孤独への回路が涵養されるのだ。
 対策は一つ、子供の方で客観的にその事実を認め、対峙し、克服するしかない。束縛と強制・禁止を愛情やしつけと履き違えた親はこの事実に信じられないほど無自覚である。だからこそ親の子供へのアティテュードは決して----絶望的に決して----変わらない。過酷なことではあるが子供の側で何とかするしかない。
 決して言語で可視化されたものではなかったが、感覚的にそのことに比較的早く気づくことができたおれはまだ幸いだった。他に兄弟がいないもんだから全てが振り分けられることなくおれに向かってくる、窒息しそうなほどに鬱陶しい家から合法的に逃げ出すため「だけ」に、おれはひたすらせっせと受験勉強に没頭したといっても過言ではないだろう。

 そりゃぁ多かれ少なかれ誰だって人は歪んでる。人格に「フツー」とか「マトモ」なんてあるわけない。悲しいがおれだって大きく歪んでるし、おれのヨメにしたって歪んでる。その歪みはナカナカ自覚症状がなく、一人でいくら本読んだりしたとしても増幅されこそすれ、補正されることはない厄介なタチのものであるが、みんな抱えている。
 補正、といったけど、もちょっと正確に言えばそれは「平均化」に他ならない。従って人格の補正は数多くの人のいる集団、要するに社会のコミュニケーションの中でのみ為されうるのは自明だし、この場合のコミュニケーションが、通常想起される「和やかな歓談」のようなおめでたいものだけでないことは言わずもがなであろう。
 夫婦だって最小単位の社会だろ?という意見も当然あるだろうが、そのように人数の少ない集団では、上のような平均化は絶対にありえない。サンプルが少ないから有意な平均値がないってミもフタもない言い方もできるし、階級化、すなわち支配/被支配の構造が一方的なため、偏頗が揉まれることがなく補正にも何にもならないってコトもある。それどころか、1対1のピンポンゲームはむしろ一人よりも歪みを増幅する可能性が高かったりもする。

 こうして歪みは子供にダイレクトに向けられ、子どもたちは孤独に向かわざるを得ない。何とまぁ、社会の第一歩たる家族というユニットこそが社会適応能力の発達を阻害し、孤独を育む元凶なワケだ。

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 ウダウダ書いたが結論を言おう。

 孤独は人を狂わせる。それは間違いない。

 ・・・・・・おそらくそれは「人間は社会的動物である」という箴言と裏返しに同義だろうと思う。
2008.07.12

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