「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
文庫本礼賛


ある意味、物凄い奇書と言って構わないと思う。ちなみにおれ、「マージャンまんが王」の頃から大ファンっす。

 喜国雅彦「本棚探偵の回想」によれば、編集家の日下三蔵は本が家からあふれて2軒目の家に引っ越したのだけど、そこもまた本であふれそうになってるのだという。まぁ、間違いなく地震が来たら本に押しつぶされて死ぬタイプだな、こりゃ。
 こんな鉄人と較べられたらどぉしよ〜もないけど、我が家は一般的な家庭としてはまずまず本は沢山ある方だろうと思う。言うまでもなく大半はおれの本だ。数え上げたことはないが、たぶん数千冊程度ある。金輪際読むこともなかろうとダンボールに詰めて実家に送ってしまったのも合わせるとザッと1万冊ってトコだろうか。もちろん、マンガも含めてだけど。

 昔からおれは滅多に大判でハードカバーの単行本を買わない。活字の本は大半が文庫だ。新刊で読みたいのがあっても、文庫化されるまで待ったりもする。なぜなら何よりコンパクトでかさ張らないからだ。3LDKのさして広くもないマンションの中をすでに楽器類や自転車が占有していてとても見苦しく、家族から顰蹙を買いまくっている実態を鑑みると、省スペースであることのプライオリティは高い。もちろん、カバンに忍ばせても邪魔にならない。ちなみにこの点では新書も似たような大きさでいいのだけど、ちょとだけ背が高いのが災いして収まりがも一つ悪い。それかあってか、こちらの増殖具合はイマイチだ。
 オマケに値段も安い。一概には言えないけど、単行本1冊分のお金で3冊から5冊は買える。これはこの歳になってもやはりありがたい。近頃、ようやく少しは暮らし向きも良くなったものの、家には食べ盛りの子供が二人、教育費だって驚くほどかかるわ、家やクルマのローンもたっぷり残っているわで、可処分所得はたいして変わっていないのだ。

 「そんなさぁ〜、家の広さやコストを気にするんならオマエ、もっと図書館を利用したらエエやんか」っちゅう意見もあるだろう。なるほど借りにいって返しに行くのがいささか面倒なだけで、これなら場所も取らず金もかからない。
 でも、どうにも図書館の雰囲気には馴染めないし、借りるのはダメなのだ。たとえ文庫本であれ、どうしてもおれは本を「所有したい」のである。ここにはフェティッシュな意味ばかりでなく、実利的な要求もある。何かの折に調べ物をしたり、あれどぉだったっけ?って気になって読み返すことがおれはひじょうに多いのだ。前者はまぁ出典をあまり不正確にしたくないって良心の産物なので、ブッチしようと思えばいくらでもブッチできる。しかし、後者は厄介だ。癇性なトコがあるので、いったん気になりだすと、もう気になって気になってどうにも寝つきが悪くなる。だから書籍類は身の回りに置いておきたい。

 ところがこれはこれで一大事だったりする。というのも、余り目につくトコに文庫本が山のようにあるのもどうかと思って、廊下の壁に埋め込まれた納戸代わりの扉付きの棚を本棚にしているのだけれど、これの一段一段が中途半端に深く、高い。そのため一段につき本の列が縦横3つづつ、すなわち9列も入っている。幅1mほどのそんな棚が2つ、1つが5段だから、10段。まぁ、全部が全部本で埋め尽くされてるワケではないとはいえ、いずれにせよとても検索性が低いのは言うまでもない。お目当ての本を探すだけで30分以上かかったりする。
 ダボ穴だけはたくさん付いてるので、せめて追加の段を買おうとマンション建てたトコに相談したら、元々家に作りつけの棚ゆえサイズが特殊らしく、法外な値段を要求されてしまった。自分で拵えるにしても、重量を考えるとベニヤを切り出すだけではすぐに歪んでしまうだろうし、かといって凝った作りにするほどの日曜大工のウデも暇もなしでそのままになってしまっている。そして今なお文庫本は着実に増え続けている。

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 文庫本の実利的なメリットばっか取り上げたが、実のところ、おれはそんなんだけで文庫本を愛しているのではない。押し付けがましさのない「軽さ」が好きなのだ。まずもってよほどのことがない限り古書市場でプレミアがつくことなんてありえないっしょ?それどころか、「どれでも100円」などとワゴンセールになるような存在ですやん、文庫本って。中に書いてあることは何等単行本と違わないのに(違ってたら困るか・・・・・・)、このあしらわれ方は一体何やねん?と不思議になるほどにその価値は軽い。

 そぉいや高価なオーディオセットがおれは大嫌いで、昔から至極一般的な普及品しか買わないのも、この文庫本好きと一脈通じるトコがあるように思う。能書きだらけでやれパラゴンだアルテックだ、チューヴアンプだ、CDは冷たいからやっぱアナログだ・・・・・・な〜んて、もぉクダらなさすぎ。カーオーディオにしても、ナカミチだマッキンだロックだと拘る人の気が知れない。以前楽器のアンプで書いたように、デカい音で鳴ってくれればそれで十分と本気で思ってる。

 つまり、本で言うなら、読めればいいのだ。だから初版本なんてどぉでもいいし、帯なんかもすぐ引っぺがして捨てちゃう。さすがに表紙がなくなるとどれがどれだか分かりにくくなるのでそれはしないが、後生大事に合皮のカバーなんぞ掛けたりはしない・・・・・・喜国氏が聞いたら泣くだろうな。自分の本の読者にこんな不逞の輩がいるなんて(笑)。もちろん、CDの初回プレスとか限定盤にも興味ない。
 そうそう、本にカバーをかける人って、なんぞ見られて困るものでも読んでるんだろうか?って思う。あれって弁当をフタで隠して食うヤツに似てる。つのだじろうのマンガだったかな、隠して食ってるのを無理やり覗き込んだら、中身芋虫びっしりだった、っちゅうのがあったけど、本でそんな怖いのんあるワケないやん。

 それならオマエ、フランス書院文庫「人妻美人課長 魅惑のふとももオフィス」牧村僚著(←今、ネットからテキトーに拾って来た。実在するタイトルである、笑)を、ヘーキでそのまま電車の中で読めるのか?と訊かれたらどうか?

 ・・・・・・う〜む、カバー掛けるかな、やっぱり(笑)。極端なケースで追い込まんといてぇな、ってね。

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 それにしても文庫本は今や花盛りである。なぜだか新書までも大流行りしている。出版不況はホンマなんやろか?といぶかしんでしまうほどに続々と刊行されるだけでなく、各社が参入している。「文庫書下ろし」なんてモノまであったりする。作家は買い叩かれて印税デフレに違いない。
 その分、廃版になるのがやたらと早くなったような気がする。ちゃんと調べたワケぢゃないが、今は初版で刷ったらそれで終わり、って本が大半を占めてるのではあるまいか?だって、棚が目まぐるしく入れ替わるもんな。

 おれが濫読を始めた頃は文庫ったって、新潮・角川が豊富なラインナップを誇るくらいで、中公や文春、講談社、集英社あたりはまだまだ貧弱だった。小学館やちくま、河出、幻冬社なんてまだ影も形もなかった。もちろん春樹さんもパクられる前だったから角川の社長で、ハルキ、なんてーのもなかった(笑)・・・・・・あ、今も昔も変わらず地味なのは岩波だな。
 つまりは、あちこちが参入しすぎて供給過剰になってしまったワケだ。

 さて、そんな中で、おれは表紙が他よりカラフルで平紐の栞が付いてる新潮が好きだった。表紙たって作家ごとで同じ意匠だったし、栞にしたってたいていは一日、ひどい時は数時間で読み飛ばしてしまうからそれほど役立ったことはないのが事実なのだけれど、意匠が異なるのは探しやすかったし、1本の栞が何となく安いものにもひと手間かけて造本してるように思えたのだ。
 そんな新潮文庫も最近はすっかり買わなくなってしまった。発行されるのがどれも何だかとてつもなくジジむさくてダサい気がするのだ。あまりにコンサバで冒険心に欠けてたりとか、あるいは「新潮45」から起こした犯罪ネタ系のアカ抜けない野暮ったさとか・・・・・・

 明治から70年代くらいまでの、純も大衆もひっくるめて日本文学に包括的に詳しくなれたのは、文庫本のおかげだと思ってる。また、この点だけは普段の反目はさておき、大いに親に感謝せねばなるまい。書籍代だけは小遣いとは別で自由に遣わせてもらったからだ。いくら安価な文庫本とはいえ、いくら彼等が安易な「読書はいいことだ」っちゅうドグマに侵されてたとはいえ(笑)、年間数百冊のペースで買い倒されるだから、その出費は相当のものだったに違いない。

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 こんなにもおれは文庫本が大好きなのだが、最近困ったことが起きてきた。何とも侘しい話である。

 ・・・・・・老眼が始まって細かい文字を追うのがしんどくなってきたのだ。シクシク。


※以前書いたのと似たような内容になっちゃったが、そのままでアップした。


例えば谷崎はこの柄で統一されてました。
なんで谷崎を例に挙げたかは分かりますよね?

2008.07.01

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