「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
石仏にまつわるetc

  別に見て回るのは趣味ではないが、石仏の持つ土俗の香り、みたいなんがけっこう好きだ。心惹かれる。

 トップページのスライドショー、2葉目は修那羅峠の石仏群だ。信州は別所温泉の近く、山の中の神社の拝殿の横にある木戸をくぐると、忽然と無数に並ぶ小さな石仏が森の中に現れる。石「仏」と書いたけどこれはあくまで便宜的なもので、実態は神仏習合もいいトコで、カミもホトケも玉石混交になっている。どれも概して技術的には稚拙で、なおかつ通常の様式からは大いに外れた造形が多いため、非常にプリミティヴで異様な印象を与える。異形、と言っていいかも知れない。そんなのが静まり返った木々の間、半ば落ち葉に埋もれて並ぶ。周囲には何とも鬼気迫るような濃密な気が充満している。
 一見、ずいぶん時代を経たモノのように見えるが、ホントはさほど古いものではなく、ほとんどが江戸末期から明治初期にかけてのものである。当時流行した修験道の雨乞いの信者達が寄進したものらしい。

 今回は、石仏についてあれこれ書いてみよう・・・・・・ハハ、それにしてもシブいテーマやなぁ〜。

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 まぁ、元はと言えば物心ついた頃から、たまの休日の寺社仏閣巡りの一環での、ハイキング代わりの石仏巡りがそのキッカケだろう。山の辺の道、あるいは岩船寺から浄瑠璃寺の間、当尾の里の石仏群といった有名どころから、今となっては良く思い出せないところも含めて、それほど頻繁ではないが連れて行かれた記憶がある。まぁ、俗物の父親の趣味に付き合わされていたワケだ。

 ・・・・・・ん!?俗物?寺行ったり、石仏見たりって立派で高尚な趣味ぢゃないの?って思われた方、それはまったく違う。要は高踏と超俗を気取ったスノビズムの塊である。そりゃぁ〜、高踏や超俗にもまれにホンマモンはあるかも知れない。けど、実のところほとんどのケースは「ケチな貧乏人の見栄の一形態」に過ぎない。「引かれ者の小唄」にむしろ近い性質のものだ。
 それが証拠に幼いおれ相手に、彼は何らかの教育もしくは啓蒙を行ってるつもりだったのだろうが、あれこれ話して聞かせることが、今にして思えば噴飯ものの内容だった。

 ------ああ、これは江戸時代のやから大したことない。アカンなぁ〜。
 ------京都の方行くとな、お地蔵さんに色塗ってしまうんやけど、そんなん価値下がる。
 ------こんなんホトケさんの形にあらへんな。

 多少の説明が必要だろう。1文目は要は古いものでないとダメ、と言いたいわけだ。古道具かよ(笑)・・・・・・そんなん江戸時代と奈良時代、どっちが古いかも分かってない子供に言っても仕方ないと思うのだけど(笑)。その次は京都特有の地蔵盆で子供たちが石仏に絵の具で色を塗りたくることを言ってるのだが、そもそも「価値」って何だんねん?美術品的な価値か?売るのか?(笑)。最後は様式とか形式のことを言おうとしてるのだろうが、そんなん時代の変遷とともにいくらでも変わってくモンなんだし、もっぱら庶民信仰の産物である石仏に正統的な様式を求めるなんてそもそもナンセンスなことなのだ。

 当時は年端もいかぬ子供だったので、素直にそんなもんなんかな〜、と思って意味も分からぬままに聞いてたけど、今なら分かる。あらかじめ何がしかのオーソライズがなされてるものでないと認めようとしないアティテュードなんて、ディレッタントとしてはいっちゃん情けない部類のものだ、ってコトが。

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 パンクぢゃ何ぢゃ、と言いながら、おまはん石仏とはどぉゆうこっちゃ?ワケ分からんのう、と言われそうだが、まぁ許してぇな、とでも言うしかない。気づいた時にはすでに自分の見聞する世界に石仏は存在してしまったのだから。
 そうそう、この組み合わせでは有名人がすでにいる・・・・・・ってマイナーやけど、元「パイディア」・「あぶらだこ」、現在は驚異のドラムンベースデュオ「RUINS」をベースに数えきれないほどの様々なプロジェクトに顔出してる才人・吉田達也である。この人の石仏、っちゅうかすでにそれを超越したあらゆる石造物への趣味は徹底していて、主催するレーベルも「磨崖仏レコーズ」って名前だったりする。

 ちなみに磨崖仏、っちゅうのは読んで字の如く、自然の崖をそのまま利用して光背型の窪みを作った所に浮き彫りもしくは線刻で仏の姿を現したものが多い。丸彫りにしてしまっては強度面での不安があるからだろうか。それに崖、っちゅうくらいだから、ある程度の高さがないと単なる段差になってしまってショボいこと限りない。だから作られるのは高さ10mとかリッパなものが多い(厳密には自然の岩肌に彫られれば、たとえ像高が一寸法師くらいでも磨崖仏だが、通常は大型のものを指す)。タリバンに爆破されちゃったバーミヤンはもちろんこれの元祖みたいなもんだけど、エジプトのカルナック神殿も、あるいはアメリカはラシュモア山の4人の大統領の彫刻もまぁ、磨崖仏の一種と言える。
 これらに共通するのは、権力者が金に糸目をつけずに大がかりに作ったものってコトだろう。そりゃそうだ。大きな足場を組んで、長期間にわたって何人もの職人を動員し、正確に大きなフォルムを削り出したり、歪みのない線刻を施すのに、潤沢な資金力が必要だったのは想像に難くない。

 しかし、日本で圧倒的に多いのは、時代劇で村はずれに立ってるような、小型で、その気になれば持ち運びできるようなものだ。つまりは時代の権力から全く無縁の人々が自ら、あるいはなけなしの金で石工に頼んで作ってもらったものだ。こんなの東南アジアの仏教系の国でも例がない。それがどうしてこの島国で大衆レベルで巷に溢れたのか?・・・・・・残念ながら、その訳は寡聞にして知らない。日本固有のアニミズムの影響で、石の霊力みたいなものと結びつきでもしたんだろうと勝手に想像している。

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 ああ、霊的な力、と言えばずいぶん昔、たしか70年代の半ばだったと思うが、件の父親が薄気味悪いことを話してたのを思い出した。

 自身が勤める大阪市内の会社の前で1年ほど前から道路工事が始まり、ほどなくして石仏が地中から掘り出されたのだという。四角い石の四面に仏の姿を彫ったものだったというから、十三重塔とか多宝塔といったものの台座と思われる。通りを挟んで会社の向かいにあったクリーニング屋がそれを何かの縁と引き取って、小さな屋根を作って安置し、花や蝋燭、線香を供えるようになったのであった。

 ・・・・・・そこから異変は始まった。

 それまで何もなかったこのクリーニング屋の一家が次々と亡くなって行ったのだ。家業は老夫婦とその息子2人の4人でやっていたのだが、最初に上の息子がポックリ、ほどなくして下の息子。そして相次ぐ不幸に精も根も尽きたか、老いた妻が寝込んでいくらもしないうちにそのまま。爺さん、そして長男の嫁とまだ小さな孫の3人だけが後に残されたのだけど、無論、そんなんでは商売にならない。店はアッと言う間に廃業に追い込まれてしまったのだった。
 いくら無神論者だってわずか数カ月の間に起きたそれら一連の不幸な出来事と、掘り出された石仏の間に何らかの因果関係を疑わない方がどうかしてる。爺さんは、おそらくは一縷の望みでもって近所の寺に相談した。
 そこからは仄聞の仄聞なので詳細は良く分からないし、あまりにまことしやかでいささか疑ってしまうが、その石仏はかつてその地が遊郭だった頃の投げ込み寺に因縁のあるものだったんだそうな。所謂「いわくつき」、っちゅうやっちゃね。だから恐らくつまりそれは埋まっていたのではなく・・・・・・埋められていたものなのだろう。封じ込めるために。
 石仏はその後、寺に奉納されたという。それで不幸の波が去ったのかどうかは、残念ながら知らない。余談だが、同様の話は大阪・羽曳野の野中寺にある俗に朝鮮地蔵と呼ばれる石像にもあったりする。

 しっかし、善意と信仰心で手厚く祀ったのにこの仕打ちはねぇよな〜、と思う。全然ワリ合わへんやんか。愚考するに、怨念とはどうやら無差別テロのような性質のものらしい。たまったモンやおまへんで、ったく。

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 なるほどまぁ、何らかの願掛け、あるいは祈念、寄進のために石仏が作られた例も多いが、やはり一番多いのは何らかの供養のためだろう。それも庶民の。現代で言うなら、交通事故の現場に石地蔵が建てられるようなモンだ。そういった点で、石仏には無名の人々の様々な情念が凝縮されている。宿るものの善悪はともかく、それがとてつもなく濃いことには間違いない。

 父親の歪んだ下らないカルティベートにもめげず、未だおれが自分なりに石仏に惹かれるのはやはり、その点が心の琴線に触れるからだろう。そして蛇足っちゅうか、オチの分かったギャグのようで申し訳ないが、その回路が、おれの温泉や民俗はじめ、あらゆる零細なもの、マイナーなものへの興味と同じであることは今さら言うまでもない。

2008.04.10

----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
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