「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
吹くならド〜ンと吹きましょう(U)・・・・・・津軽王朝


二瓶絵夢、気色悪い顔してるな〜。


もう完全にクロだと思うんですけどね〜、信者はそれを認めないんですよ。

 二瓶絵夢、っちゅうフリーライターの女を初めとする数名が詐欺容疑で先日逮捕されてた。地権者の委任状を偽造して10億円ほどを騙し取ろうとしたのである。

 まぁ、これだけなら単なるつまらない詐欺事件だが、このオンナの氏素性が異常に面白い。元々は雑誌「SPA!」の周辺をチョロチョロするだけだったのが、このテの連中に共通するテムパリ系の図々しさを発揮したか、扶桑社〜産経つながりでお堅い「正論」に出入りするようになり、そっから北朝鮮拉致問題って格好の鉱脈を見つけていつの間にか平沢勝栄の秘書を名乗り、山拓にくっついて北朝鮮行ったり、ワケの分からん団体立ち上げて理事に納まると言ってみたり、祖父病院経営で実父都内アパート在住の商業デザイナーで再婚の母親はトルコ人で・・・・・・。

 ・・・・・・アホかぁ〜っ!!

 100%ウソならまだしも北朝鮮に行ったとか、いくばくかの真実が混じってるから実にややこしい。言えることはこのオバハン、典型的な詐欺師・虚言症的体質の持ち主だった、ってコトだろう。自分のついたウソをさらなるウソで糊塗していくうちに陶酔し、爪の垢ほどの真実を芯にウソの泥で塗り固め、ウソのメッキでコテコテに光らせ、脳内でいつしかすべて真実としての体系をこしらてしまうタイプだ。ジャーナリストよりも作家を目指した方が良かったんぢゃないのかな?

 ああ、二瓶が面白すぎて本題を忘れるトコだった。

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 戦後まだ間もない1948年、青森県は五所川原からちょっと先、津軽鉄道の飯詰って駅の近く、和田喜八郎という男の家の天井を突き破って長持が落っこちてきた。開けてみると何とその中には600巻に及ぶ古文書が収められていた・・・・・・これこそが和田家文書、有名な「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」である。
 その内容は、っちゅうと、奥州・安部氏の末裔とされる津軽安東氏の歴史を古代までさかのぼってまとめたもので、江戸末期に編纂されたものをカレの祖父が写し取ったものと言われ、津軽に独自の古代王朝があった、なんちゅう驚嘆すべきことが多数の絵とともにそこには記されていたのであった。

 1969年だったか、本人の手によりこれが地元の教育委員会に持ち込まれ、1975年から村誌として順次刊行されると、日本の古代史学界は上へ下への大騒ぎになった。そりゃ〜そうだ。今は寂しい寂しい十三湊は王朝の首都だし、そこは世界のあらゆる国と交易してるし(まぁ、十三湊が中世以降に重要な貿易港であったのは史実)、有名な遮光式土偶はちゃんと名前のある神様になってるし、挙句の果ては「耶馬台城」なんてーのまで登場する・・・・・・って、もぉこれまでの日本史を根底から覆すような事柄のオンパレードだったのだから。
 当然、熱烈な支持者、あまりに荒唐無稽で面白すぎる内容に疑いの目を向ける者、両方が現れてお互いに一歩も譲らない論陣を張ったのであった。とはいえ、大体において古代史はロマン、っちゅうヤツが思いっきりバイアスを掛けるので、地道な否定論者は大衆受けしにくい。ちなみに前者の代表格は邪馬台国で独自の学説を掲げた、熱狂的信者を多数持つ「あの」古田武彦である。

 しかし、その内おかしなことが一杯分かってきた。

 詳しくはこの事件の顛末をまとめた本やウィキペディア等に載ってるので、ここではおれがこの「古文書」に関して元々知ってた雑駁な部分のみを端折って書くが、江戸時代にはなかった言葉----「冥王星」!とかね。1930年発見なんだけどな(笑)----が用いられてたり、筆跡がこの和田喜八郎本人のものと合致したり、どだい彼の家は昭和になってから建てられたもので江戸時代からモノが隠せるハズもなく、その天井裏に長持の入るスペースもなければ、「発見された」当時は天井突き破ろうにもそもそも天井がなくて屋根裏が見えてた、という親族の証言が出てきたり・・・・・・ガキでももうちょっと念入りにやるで。
 その後も徹底的な検証が行われ、内容がさまざまな本の寄せ集めに創作を加えたものであることがだんだん分かってきた。タネ本には「ギリシャ神話」まであった、っちゅうからこの男、相当濫読はしてたのだろう。

 つまりは杜撰で辻褄の合わない、すぐに襤褸の出る安っぽい捏造だったワケだ。だが、古田はそれでも支持し続けた。

 さらに付け加えると、この和田喜八郎の来歴自体がこれまた異様に胡散臭い。陸軍中野学校から海軍に移り、さらには皇宮護衛官だったと本人は触れ回っている。気が触れてるのかと思うよね・・・・・・で、皇宮護衛官やってたわりには、1949年にさまざまの古美術品めいたものを青森県の地元で発見して新聞に載ったりもしてる。ちゃんと皇居守ってたんかいな?(笑)・・・・・・あれれ!?それにさぁ〜、その前年に天井裏から度肝を抜くような古文書が発見されてたハズなのに、何でそっちを発表せんかったんだろ?
 ちなみに本職は「古物商」。ハハハ、もうモロ、ですな。古装仕上げ・・・・・・今風に言うなら「レリック加工」は、この業界に関わる者ならそれを悪用するかどうかは別にして、少なくとも目利きをするためには絶対に不可欠な知識である。
 1999年に彼は亡くなり、その死に際しても古田は情熱的な追悼文を寄せたりしてる・・・・・・が、死後行われた和田家の調査では、家の構造が上記の通りであることが判明しただけでなく、「ある」と主張しながら決して公開しなかった原本はついに発見されなかった代わりに、紙を古く見せるための薬品類さえ見つかったのだった。

 ・・・・・・どう考えたって手先が器用で歴史をかじったことのある単なる詐欺師という他ない。

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 ものの見事にやられたのは言うまでもなく、上記(「うえつふみ」ぢゃないよ、フツーに「じょうき」って読んでね、笑)、古田武彦である。ところがここまでデッチ上げが明らかになったっちゅうのにプライドが許さないのか保身なのか、未だもってこのインチキ捏造本を真書であると言って譲らない。
 この異常なまでのイサギの悪さは、「第二芸術論」で大ポカこいた桑原武夫を彷彿とさせるものがある。また、彼の取り巻き----学問上の薫陶を受けたとかではなく市井の古代史ファンがやたら多いのが特徴なのだけど----は、偽書であることを冷静に立証する連中に陰謀説まで持ち出してきてエラいことになってる。ほとんど新興宗教に近い状態だ。ちなみにかつて関西のTV番組には欠かせなかった上岡龍太郎も古田の熱烈なシンパとして有名だ。

 こうしてこの一派は古田を教祖とするナンギな「古田教」と化してるのだが、しかし、考えてみると古田自身もまた「和田教」の信者のように見える。新興宗教もそうだけど、あらゆる詐欺の特徴は被害者(=信者)がインテリであればあるほど、加害者(=教祖)から蒙った被害を被害としてサッパリ理解しないどころか、冷静に周囲が詐欺でっせ、と教えるほどに却って激昂し、より信頼(=帰依)を深めていくところにあると思うのだが、まさにその公式を地で行ってる感がある。「東日流外三郡誌」を支持し続けたことで、過去のマトモな研究まで斜に見られ、学者生命をほとんど絶たれたっちゅうのに・・・・・・。

 「東日流外三郡誌」が100%どころか120%偽書であることはもはや間違いない。しかし、疑問は残る。どうしてこの男、憑かれたように600巻もの「古文書」を営々とこしらえたのだろう?600巻、とうてい1年や2年で書き上げれる分量ではない。ものごっついパワーやで。自己顕示欲か?金銭欲か?名誉浴か?復讐心か?・・・・・・しかしそのいずれにしても、あまりに回りくどく手が込みすぎてる。もっと手っ取り早い方法はいくらでもあったろうに。

 ・・・・・・やはり、カレもまた天性の詐欺師として自分の築き上げたウソの世界に耽溺し陶酔してたのだろう。詐欺師の王国はウソそのものの中にあって、そのことだけが逆説的に真実だ。

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 数年前、所用で青森を訪問した際、飲み屋に行くと地酒のワンカップが何種類も置かれていた。けっこうお得な値段なので何本かおれは注文したのだが、その中に「東日流」だか「安東水軍」だか、明らかにこの偽書なくしてはありえないようなネーミングのものがある。
 飲みながら、どうしようもない詐欺師も地元経済にはちったぁ貢献したんだなぁ〜、とおれは少し嬉しくなったのだった。酒はけっこう美味かった。

 ともあれ、あらゆる欲が他人より多く、才能あふれるおれ(あるいはアタシ)はこんなトコで終わる人間ぢゃない、な〜んて思ってる人、そのワリに過去の学校の成績にしたって運動にしたってそこそこ程度で、家もパンピーでさしたるコネもなく鬱々としてる人、気を付けましょうね〜。アナタの行く先には成功者としての栄光よりも、詐欺師としてのマヌケな末路が待ち構えてることの方が、間違いなく、多いです。



※最後に「東日流外三郡誌」を未だに奉じる人のため、あるいはその他さまざまな詐欺に遭わないためにも、親族の方が懲りもせずにこの家を訪れるアホで安直な古代史マニアに渡しているというパンフレットを紹介しておこう。なお蛇足だが、おれはこの篤実な文章読んでひどく心打たれたことを申し添えておく。

私は和田元市(和田喜八郎の父)の弟の子で、喜八郎とはいとこです。
私は喜八郎宅後ろの同敷地内で生まれ、父が亡くなって母が再婚したことから14歳の時に母に連れられ一旦家を出ました。
しかし、数ヶ月で私はおばあちゃん(和田長作の妻)に連れ戻され、母は再婚先で暮しているため、一人になった私は喜八郎宅の家族と一緒に暮らし始めました。
私が喜八郎宅に住まいした期間は結婚するまでの、5年間で昭和19年の14歳から、昭和24年の19歳迄です。結婚後は再び喜八郎宅裏の生家で暮らして現在に至っており、幼い頃から喜八郎宅へはしょっちゅう出入りしているため、和田家先祖のことも喜八郎のことも全て分かります。

喜八郎はデタラメな人問でした.
和田家の家系が何十代も前まで遡ることができるというのは嘘ですし、はっきりと分かっているのは元市の親の長作、その親の末吉までです。代々、米作りと炭焼きを行っており、末吉、長作は殆ど字は書けませんし、当時の農家としては当り前のことでした。
元々、末吉は飯詰の隣村の下岩崎に住んでいたと聞いており、末吉の子の長作の代になって現在地へ引っ越して来たと聞いています。
現在の喜八郎宅は長作が亡くなった後に元市が建てたもので、元市の弟の健三が製材所に勤務していた当時に、古材を集めて昭和15年頃に建てた家です。

私は新築後の喜八郎宅に5年間同居しましたが、新築する以前の家屋も造りは同じで、大きさは一回り小さかった。
現在の喜八郎宅は天井に耐火ボードを張っていますが、昭和24年頃は耐火ボードを張っていないため、部屋の上は屋根裏です。
天井裏に本などが入った箱が吊るされていたということはなく、天井裏から古文書が入った箱が落下したとか、和田家に代々伝わる古文書があるなどは喜八郎の作り話です。
昭和15年頃に建てた家の天井に、先祖から代々伝わる古文書があるはずはありませんし、和田家に伝わっていたとするものは何一つなかった。
飯詰の人々は喜八郎の性格を知っており、誰も相手にする人はいなかったし、市浦村は喜八郎に騙されたのです。

喜八郎は絵を書くのが上手く、筆を使って障子紙に字も書いていた。
私は書いているところを何度も見たことがあり、喜八郎は書いた紙を古く見せるため、薪を燃やす炉の上にワラジを干すスダナというものがあったが、スダナに付いた煤を紙に付けて揉んでいた。
和田家は中程度の農家でした。しかし後を継いだ喜八郎は仕事もせずに神様と称したり、訳の分からないことや書物(かきもの)ばかりをしていたので、残った財産は喜八郎宅と僅かな田圃だけとなり、それも裁判所に差押えられたまま喜八郎は亡くなりました。
喜八郎が関係した本に出でくる筆跡は喜八郎自身のものです。
和田長作の長男にあたる人は神奈川県に住んでおり、二男が喜八郎の父の元市、三男が私の父です。

昭和20年代に元市が炭焼窯の跡から出土したとして杯のようなものと銚子を持って来ましたが、出土物は元市から見せて貰って知っていた。
ところがその後に、出土物を持った喜八郎が写真入りで新聞報道され、その時は見たことのないものまでもが出土物として写真掲載されていた。
その頃から喜八郎は出土物がお金になることを知ったと思います。

若い頃の喜八郎は自分を神様と称して自宅に人を集めたり、飯詰駅の近くに小屋を建て、自分で彫った石像を神から授かった出土物として祭ってみたり、やること全てが嘘デタラメだった。
嘘の作り話が長続きするはずはなく、それらはすぐに消滅です。
石ノ塔に神社を建てた時も同様で、皆から寄付金を集めて神社を建てましたが、飯詰から石ノ塔の神社へお参りに行く人は誰もおりません。
石ノ塔と和田家先祖とは何も関係はありません。

喜八郎の作り話が歴史として後世に残ることは避けなければなりませんし、子孫には真実を伝えたいと思います。


和田キヨエ
http://yamatai.cside.com/より転載
参考資料:

  「邪馬台国の会」http://yamatai.cside.com/index.htm
  「東日流外三郡誌の世界」http://www.gji.jp/tsugaru/sangunshi7.htm
  「原田実の幻想研究室」http://www8.ocn.ne.jp/~douji/
  「アンディの奇妙な冒険」http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/1541/kimyounasekaitop.html
  「Wikipedia」http://ja.wikipedia.org/
  藤原明「日本の偽書」(文芸春秋)
2007.12.08

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