「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
蔵書考


蔵書印の例

http://blog.livedoor.jp/shorindo1/より
 蔵書を語ることは恥ずかしい、蔵書印なんて死んでも捺したくない・・・・・・少なくともそれくらいの羞恥の感覚は、おれにだって、ある。

 読書を恥ずかしがる必要までは一向にないと思うんだけど、蔵書となると、「知的行為に名を借りた単なる蒐集癖」みたいな、なんだかねじれたモノ自慢の腐臭がプンプン漂う。
 しかし、読んだ本をまた読み返すこともあろうし、気になったところをカードに抜き書きする習慣もなく、何より買った物は取っておきたい吝嗇なおれなので、どうしても本が増えてってしまうのだ。もちろん、そのうち古書としての価値がつくかも知れない、なんてぇスケベ根性もある・・・・・・そのワリには文庫本が大半を占めてるけど(笑)。

 「本は売るもんぢゃない」などとゆう教条主義的意見があるが、おれは全くそれには与しない。売りたきゃ売りゃぁエエのだ。家も狭くなるし、紙魚も涌く、傾くコトだってあるかもしれない。
 昔、遅筆堂、こと井上ひさしがエッセーに書いてたが、彼は蔵書で家の床が抜けたことがあるそうだ。部屋の隅に積み上げられてた本の山の上になにげにポンと1冊置いたらそうなったのだが、その本のタイトルは「旅の重み」だった、もしこれが「軽み」だったら抜けなかったろうとかどうとか、そんな話だった。

 そこまでではないけれど、リビングと廊下にある書架はブキミに増殖を続けている。引越しの度に、これでもずいぶん実家に送り返したのだけど、やはり気付くと本は溢れ出そうとしている。その姿は巨大なスライムみたいだ。侵食、という言葉が浮かぶ。

 そんなおれだが、蔵書を売りに古本屋に本を持ってったことが、なくはない。

 しかし、見事にそれはお金にならなかった。そして、その額は、持って行く手間と失望を勘案すると、あまりに低いように思われた。
 本は読んだからと言って中身がなくなるわけではない。そりゃまぁ多少汚れたり折り目がついちゃったりなんてこともあるかもしれないが、ダシ取った後のカツオブシや昆布とは違う。嗚呼それなのにそれなのに、このメチャクチャなタダ同然の値付けは何なんだ!?
 捨てたほうがマシだ、ってキブンになった。

 そんなワケで相変わらず本は増え続けてる。

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 ネット社会が到来して、ちったぁ紙でできた本も減らせれるのかな?と、最初は淡い希望を抱いた。しかし、現状ではむつかしいような気がする。

 探しにくいのだ。

 現に会社のペーパレス化も、掛け声ばっかりでナカナカ進んでいないのが実態のようで、その理由をおれは最初、過去の膨大な紙資料を電子化する手間がやっぱめんどくさいのかなぁ?と思ってたが、どうやら検索性の悪さに業を煮やすことが多いからなんだそうな。

 辞書を引くことを想像していただければ分かると思うが、本の肩をパラパラめくって探すのって意外に効率が良い。辞書に限ったことではない。小説だろうがエッセーだろうが、記憶を頼りに何かの記述を探すのに、この「肩パラパラ」は調子いい。たとえウロ覚えでも「大体あの辺にあったよなぁ〜」って感じで探せる。
 それ以前に書架は、たいていの場合その人にあった本の並べ方をするのがフツーなので、その点で基本インデックスが最適化されてるとも言えるワケだし。

 ネットでの検索は最近「あいまい検索」みたいな機能が組み込まれて、昔よりずいぶん改善されてきたとはいえ、基本は探したい言葉に一致したキーワードであることが大前提である。ところが、長い記述は忘れてしまってるし、短い単語だと山のように見つかったりして、ピンポイントでヒットさせることがとてもむつかしい。

 USBでつなぐ本の肩の形した検索用のマウスみたいなんでもできれば、ちったぁ改善されるかも知れないが、書籍の電子化そのものが遅れてる状況からすると、まだまだ本も行けるような気がする。

 そんなワケで相変わらず本は増え続けてる。

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 蔵書を増やさないようにする手段としては、古典的な「図書館」、って方法がある。これだと金もかからず、家も狭くならない。家の近所にも市営の小さいのがあって、子供たちはたまに利用してるらしい。

 ところがおれは図書館がキライだ。何よりあの静かな雰囲気、並んだ机とイス、それに見ず知らずの人と隣り合って本を読むなんて、おれには到底できない。
 ・・・・・・ってな情緒的側面は、まぁ、置いとくとしても、それでも図書館はどうしても好きになれない。そもそも、読みたい本がそこにないのだから、そりゃ足も遠のくっちゅうモンだ。っちゅうのもやはり、図書館は公的機関であるからして、あまり毒気の強いエキセントリックなモノや、マイナーなものは置いてくれない。一方で、売れ筋の本はいつ行っても貸し出し中だったりする。
 結果、言っちゃぁ悪いが、どぉでもいいような流行遅れの本ばっかしが残る。

 それにサラリーマンやってると、図書館ってものすごく不便で使いづらい。この辺もまた公的機関であるからして、開館時間とか、市民の生活パターンとかを一切忖度していないのである。サービス精神ゼロ。9:00〜17:00(※)、ってアータ、こんな時間に足繁く通えるヤツって、年金持ち逃げ世代かプー太郎くらいなもんだっせ。24時間とは言わんけど、せめて10時までは開いてて欲しいもんだ。有料にしていいから。
 え!?土・日も開館してます、って!?・・・・・・アホかぁ〜!何でワザワザ貴重な休みを図書館通いに費やさんとアカンのや?それでなくても、欲しい本を置いてないところやのに。わいはイラチなんやど!

 そんなワケで相変わらず本は増え続けてる。

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 でも、と思う。

 もっと根源的なところに蔵書が増え続ける理由があるんぢゃないか?って気もする。

 インターネットがもっと整備され、図書館がツタヤのようにあちこちにできて深夜まで営業したら、おれの蔵書がこれ以上増えることはなくなるのだろうか?

 ・・・・・・多分ないような気がする。

 たとえば画像。目下のところおれは、撮影した写真は全部媒体に保存して、紙に出力はしてないのだけど、それはただもう高画質プリント紙を買う金がないためだけで、ホントは昔ながらの写真にして取って置きたい。不安だからだ。保存はPCのHDDと媒体2枚の計3ヶ所にしてるけれども、単純に五感で捉えられないのはどうにも不安で仕方ない。

 結局のところ、自分の得た知識や情報が、すぐ手の届くところで視覚的に把握できないと不安なのだ。こぉゆう輩を何と呼ぶか?・・・・・・無論、「つまらない俗物」である。

 そぉいや太宰治は蔵書をほとんど持たなかったそうな。本棚にあった本はただ1冊きり。それは「聖書」だった。さすが!自意識過剰のええかっこしいを自認していただけあるわ。




※都道府県の中央図書館みたいなところはかなり遅くやってる。でも、巨大な公園のど真ん中とかに建ってたりするんだよな〜。

2007.07.16
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