「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
神話/言行録/あるいはワタシがイズムを嫌うわけ


デューク東郷と並ぶ「笑わないキャラ」っすね〜。

 ・・・・・・どうして神話は長いのだろう?

 手許に本がないのでよく分からないが、えーっと、たしか開高健がエッセーに書いてるのを昔読んだ。沖縄だか奄美に日本で一番短い民話があるのだそうな。その短さたるや、恐るべきことに短歌より短い。短歌といえばみそひともじ、つまり31文字だから、20なん文字である。内容は忘れたが、そんな短さで果たして「お話」が成立するのだろうか
 ここまで極端に短いのはともかく、なるほど民話は逆に短いものだ。短編神話の例を聞いたことがなうように長編民話も聞いたためしがない。ナントカサーガ、なんちゅうのはムダに何巻も続くのが普通だし、TVでやってた「まんが日本昔話」は30分で2話だった。

 ともあれ、おれはずいぶん以前からこの謎に取り付かれている。

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 思い起こせば昭和58年(1983年)の初秋の頃だったか、奇蹟的な傑作マンガの連載が開始されたのを、中免取りに行ってた山科の教習所の待合室でおれは知った。ぞんざいにマガジンラックか何かに突っ込まれた、表紙の取れかけた少年ジャンプ、タイトルは「北斗の拳」という。そう、「たわば!」とか「あべし!」、「ひでぶ!」、「ぱっぴっぷっぺっぽぉ〜!」のアレね。

 コテコテのキャラと濃い画風、支離滅裂な時代設定、大仰なセリフ、炸裂するバイオレンス・・・・・・まんま「マッドマックス」のパクリ(笑)。オマケに何ともご都合主義なストーリー展開。最初おらぁ永井豪の「バイオレンスジャック」をあの映画に置き換えてパクってるなぁ〜、って思ったよ。それに当時はラブコメ全盛で、箸がこけたような盛り上がりのない話がダラダラ続くのが漫画誌の大半を占めてた時代で、ぶっちゃけ、「こんなん続くんかいな〜?」とも思ったな。
 でも、教習所に通いながら何話か続けて読むうちに、おれはその世界に引きずり込まれていったのだった。

 なぜにこんなにこのマンガは面白いのだろう?ストーリーとしてはほとんど破綻してるのに、決してオリジナリティ溢れる内容でもないのに、絵だって決して洗練されてはいないのに・・・・・・オノマトペがおもろいからか!?徹頭徹尾善悪二元論で、善玉・悪玉がハッキリしたキャラの楽しさか!?人気の出やすい近未来物だからか!?・・・・・・違う!

 要はこのマンガ、神話の要素を備えてるから面白いのだ、ってことに気付くのにそんなに時間はかからなかった。ぢゃ、神話の要素って何やねん?と畳み込まれてたら困ってたろう。その時は分からなかったのだ。
 一言で言って、神話の要素とは少々の矛盾も飲み込んでしまう巨大なダイナミズムだろう、と今では思っている。ただ、そのことをどこまで原作者の武論尊が自覚していたかは知らない。出だしはかなり安易だったし、いつまでたっても筋書きは後付けの建て増しばっかだったとこからすると、コンセプトにおいては多少はあったろうが、ストーリーを追っかけるのに必死で、あまり深くは考えてなかったのが正解ではなかろうか。どだい人気でなけりゃ10話で打ち切り、がジャンプの掟だもんね。

 結局、「北斗の拳」は中身ムチャクチャにもかかわらず、戦後のマンガ史に残るような傑作となった。連載開始からすでに20年以上が経ったものの、未だ人気は衰えず、新作映画が公開されたり、ファミコンになったり、パチンコ台になったりしてるのは周知のことだろう。
 そこにもはや一貫したストーリーはない・・・・・・いや、違う、ストーリーは最早どぉだっていいのだ。続くこと自体がさらに新たな神話としての価値を生み出している。案外、ジャンプの強引な連載延長は正解だったのかも知れない(笑)。たわば!

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 これまでも何度か言及したが、おれは中上健次の作品が大好きだ。「世界はギリシャ悲劇を演じている」だったっけか、そんな考えを立脚点に、もっぱら紀州の被差別部落である「路地」を舞台、あるいは起点として延々と語られる作品群は、「重力の都」みたいな明らかに読みきり短編を意図して書かれたものはともかくとして、長編は全てが一話につながっているような壮大な物語である(まぁ「千年の愉楽」なんかオリュウノオバを道化回しに短編をムリヤリ一つにつないだ感もあるけど、笑)。
 ゾロゾロ出てくる登場人物、複雑な姻戚と人間関係・・・・・・そんな中で「父と子の相克」「インセスト」「貴種流離」「試練と再生」といった普遍的で重く暗いテーマが、野太いっちゅうよりは粗野、雄渾っちゅうよりはいささか冗長で執拗な文体で語られる。まぁ、「熊野サーガ」などと称されたのもよく分かるわ。

 おれが最初に読んだのは、たしか「鳳仙花」だったと思う。高校の初めくらいだったかな?なんでそんな外伝みたいなトコから読み始めたのかは分からない。ハッキシ言って、読了するのにエラい苦労した。ぶっちゃけ、のたうつような文体のアクがどうにも馴染めなくかったのだ。「もちょっと短く、サラッと書けや〜!」って印象だった。長さそのものの意義が分かってなかったのだな。
 30ちょっと過ぎた頃になって、何の気なしに読んでみたら(このときも若干外して「枯木灘」あたりから読み始めた気がする)、今度はハマッた。エッセーは除いて小説作品は長いの短いの一緒くたに一気呵成に読んでしまった。

 さてさて、秋幸を主人公とする初期三部作から、末期の連作「日輪の翼」「讃歌」まで、共通するのは「とにかく無闇に長い」ってことだろう(「岬」はまぁ短いな・・・・・・)。後になるほどこの傾向は強まって行き、本は何だか辞書みたいな厚みになってしまってる(あ、そぉいや花村萬月も年々長くなってくなぁ〜。この2人、扱うテーマは違えど何だか共通点が多い気がする)。
 ともあれ、どうやら人間的にはムチャクチャかつ凶暴、か〜なりヤなヤツだったらしいけど、作品は間違いなく後世に残ると思う。

 いずれにせよ、神話はどうしたってやはり長い。

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 またまた話は変わるが、しばらく前に呉智英の「現代人の論語」って本を読んだ。論語のダイジェスト解説本、といって良いだろう。どうにも「儒教」に旧弊のイメージが付きまとうせいか、論語ってまともに最近読まれなくなってる本の一つだが、そんなことないんだな、と考え方を改めさせてくれるような内容になっている。
 とは申せ、彼の書く本はどれもムチャクチャに面白いので、論語そのものが果たしてホントにここまで面白いのかは何とも言えない。が、それでもちょっとだけ分かったことがある。

 論語には主張として矛盾してるとしか言えないくだりがけっこうあるんだな〜、ってコトだ。つまり、ある部分では「Aである」と言ってるのが、ある部分では「Aではない」と言ってるような、明らかな論理性の破綻である。
 これはおれにとってはちょっとした驚きだった。思想書が言ってることが折々で食い違ってるなんて、そりゃ反則やろ、と。
 何でそんなことが起きてるのかっちゅうと、要はこの本は別に孔子が著したものではなく、没後に弟子たちが彼等との対話を中心とするその言葉をまとめた言行録だからだ。この点でちょっと聖書と似てる。そう、別に思想書として初めから意図されたモノではないのである。対話は膨大なものであったろうから、言行録にはおそろしく長い放言集の抄録と呼べる性格があり、

 でも、矛盾してるからっておれは別段ハラは立たなかったし、むしろそのどっちゃにも取れる多義性こそが思想としての面白さを一層深めてるんぢゃないか、って思った・・・・・・とはいえ、でもまぁ最初に驚いたんだから、おれだって現代人の共通の病である「一意の解があってあたりまえ病」にかかってたワケで、あんまし偉そうには言えない。

 そして、そこまで思い至った時、神話が長いワケがホンの少しだけ分かったような気がした。おそらく、簡潔で明快、破綻のない論理だけでは、決して獲得し得ない「世の理」があって、また、絶対に納得しないおれ達がいる。人間はそぉゆう風にできているのだ。

 神話はマニュアルでもなければ参考書でもなく、哲学書でも評論でもない。その矛盾したり破綻しながらも延々と続くうねりの中から浮かび上がらせすくい取ることでしか得られないものがある。決してきれいに可視化されるものでもないし、一意に収斂されるものでものだろうけど、ある。

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 漫談も長くなってきたので、そろそろオチを考えなくちゃいけない。

 常々言及してるようにおれは、「**主義」ってーのが大嫌いだ。イズム、っちゅうアレやね。なんか思考回路や価値観の鋳型を、頼まれもしないのに気ままにこしらえて、世の中の全ての事柄を当て嵌めてしまおう、ってどだいムリがある。それって思想による歪んだ支配欲の顕現なんぢゃねぇのか!?とさえ最近では思っている。

 60年代、70年代の熱気や幻想はとうに過去の物となってたとはいえ、大学に入ると、それでも周囲は左翼を志すヤツがとても多かった。経典は無論、「資本論」・・・・・・っちゅうても、マトモに通読したんはおらんかったような気がするけど(笑)。そんな中で色んな話をおれは聞かされたが、一向に心には響かなかった。そぉゆう捉え方で若干は説明できても、あまりにそこからこぼれ落ちるものが多いように思った。実存主義も然り、構造主義も然り。
 ちょっと後になってだが、浅田彰の「逃走論」が思想書としては異例のベストセラーとなった頃でもあって、盛んに「ポストモダン」とか「脱・構築」等とか叫ばれていたが、おれは何にも感じなかった。視点、あるいは切り口の一つ以上のものには思えなかったのだ。あ〜そぉゆう見方もできておもろいね、みたいな。

 その当時、それらの高邁な主義に感銘を受けないのは、おれがアホで、それらの理論的思考についていけないからなのかな?と思ってたが、今は違う。アホはアホのままだけどね(笑)。

 「思想」、はあっていい。しかし、それが理論的整合性を求め、模式化される「主義」となった時点で実は、普遍性はおそらく喪われているのだ。あるいはこの考えは、寂しく、また、危険なのかも知れないが、矛盾しながらも連綿とうねる物語や言行録の中にのみ、思想はおぼろげに立ち現われる。そんな気がする。

 全然言葉足らずだが、今おれが書けるのはここまでだ。


巨漢。高校行くか相撲取りになるかで迷った、ってエピソードが確かあったはず。

2007.06.17
----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
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