「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
殺すな


ホンット、ネットってスゴいや。ダダカンのパフォーマンス写真発見!

http://wsn.31rsm.ne.jp/~osakana/より
 全ての子供がそうであるように、おれもガキの頃はそれなりに残酷だった。そのことについては昔話の駄文の中で折につけ触れてきたので、ここではもう繰り返さないが、まぁ、それでもいつしか善悪や分別を知るようになると、虫や小動物をいじめたりすることはなくなて行った。
 無論、今のおれにだって憎悪・嫉妬・邪心・強欲・暴力/破壊衝動・・・・・・といった負の感情が起きることはままある。けれど、それをガマンする代わりに、か弱い存在の命を戯れに奪ったり弄んだりしても溜飲が下がることはないだろうし、どだいしようとも思わない。ひとえにおれが歳食って保身に走ったからではない。理性が本能を抑圧したからでもない。ただもう、単純に不快に思うようになったのだ、他者の命をテンゴすることが。だからおれはもう現在では虫も殺さない・・・・・・あ、蚊取り線香やベープマットは焚くけど。活け造りに舌鼓は打つけれど(笑)。

 正しく言うと、無益な殺生はしない。

 言うまでもなく、あらゆる命は他の命の犠牲の上に成り立っている。人間なんてもっとも犠牲にしている命の数が多い生物だろう。これはもう実に罪深い話ではあるが、同時にいかんともしがたい厳然たる事実でもある。原罪だ。業だ。
 耶蘇のバイアスかかりまくった反捕鯨に代表される動物愛護主義者の、あるいは非科学的理想論のカタマリのようなヴェジタリアンの、社会や経済原則を無視した死刑廃止論者の、そのエゴイスティックなノー天気さにはしばしばカチンとは来るけれど、しかし主張のいちばん根本にある「無駄に命を奪わない」、っちゅうテーゼそのものは間違ってはいないと思う。

 しかし、無益な殺生は何故ダメなのかを証明する手立ては実はない。それはなぜ命が生殖活動を行うのか?と同じくらい証明不能な--------いわば「公理」なんぢゃないかと思う。

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 話が唐突で申し訳ないけど、ここで「ダダカン」っちゅう人のパフォーマンスについてちょっと触れてみよう・・・・・・って、ギリヤーク尼ヶ崎や秋山祐徳太子は知ってても、ダダカン知ってる人は少ないだろうから、まずは紹介が必要だな。
 本名・糸井貫二、1920年生まれのこの人、50年代の読売アンデパンタンの頃から60〜70年代初頭のアングラやヒッピームーヴメントの頃にかけてハプニング(今はパフォーマンス、っちゅうけど昔はそう呼んだ)で活動した人である。今も存命かどうかは寡聞にして知らない。
 もうずいぶん昔のことだが、そのハプニングの一つを知っておれはものすごい衝撃を受けた。いや、そんなややこしい内容ではない。要は何かのイベント会場で「殺すな」と書かれたプラカードを首から提げたり木に貼ったりしてハダカになって走る・・・・・・まぁ基本的にはそれだけ。他も大体似たようなもんだ。そんなんだから警察をお騒がせすることはあっても、芸術史の世界からは完全に黙殺されたままだった。

 確かに徹底して意味不明だし、所謂「芸術らしい高尚さ」は微塵もない、幼稚でさえある。しかし、それでもおれにはそのハプニングが、裸体の持つ根源的な非暴力性や弱さ、そしていささかベタな「殺すな」って素朴なメッセージ等が相まって、無益な殺生はダメであることと、その証明の不可能性をもっとも直截で秀逸に表現しているように思えたのだった。

 そうだ・・・・・・「殺すな」

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 前置きが長くなってしまった。

 別段今に始まったことではないが、世の中には動物虐待を自慢する人がたまに現われる。その暗い自己顕示欲の源泉はおそらく自分自身が社会的に無能であることに対する強い劣等感と、並外れた自尊心なのではないかと推察せられ、その病理自体には若干の興味を抱いてしまうけど、いずれにせよ胸クソ悪いイヤ〜な話ではある。
 今はネット社会なので、そぉゆうことが知れると、もちろん鬼のように非難の嵐が集中する・・・・・・ってーかやる方もやる方で、自己顕示欲を満たすために画像をネット上に投稿したりする。そんなんだからもぉ警察とかに告発メールがバンバン届くらしい。そうして警察が動き、犯人が逮捕され、社会的に抹殺される。

 確かに動物虐待は非道なことだ。たとえそれが切実な表現行為の一環だとしても、おれ的にはあまり認めたくない。いつだったか金魚を電源のつながったコーヒーポットや、ミキサーに泳がせる「作品」っちゅうのが物議をかもしたけど(ちなみにスイッチを入れるかどうかは観客の手に委ねられる)、そんなんでもおれは何だかイヤ〜な気分になったもん。それに今は動物愛護法って法律もあって、かなりキツい罰則規定もあったはずだ。

 それでも、だ。ここからおれはどうにも考え込んでしまう。

 犯人を許せぬ!とばかりに警察にメール打つ人だだって、結局この犯人を圧殺してるんぢゃないのか?と。それも「正義」の確信に満ちて「他者を圧殺する痛み」を感じることもなく、そして自らは少しも手を汚すことなく、だ。そうゆう風にして気に食わないものを社会から排除しようとする雰囲気がどこかしら感じられてしまうのだ。
 少なくともおれは動物虐待はイヤでも、だからっちゅうて告発して、声高にすぐ捜査しろ!早く逮捕しろ!とまではどうしても言えないのだ。

 話はまた飛躍するが、死刑執行の際に足元の台をカパッと開けるスイッチは3つあって、3人の担当官が同時に押すのだそうな。

 相手はまぁ一言で言って兇悪犯だ。今の日本は冤罪の可能性はかなり低下してる(あくまで確率論だが)だろうから、そのほとんどは生かしておいてもロクなことのない連中ばかりだろう。抹殺することは決して社会にとって無益ではないはずだ。
 それでもスイッチは3つ並んでいる。そして執行した担当官はひじょうに寝覚めの悪い気持ちを味わうのだそうな。相手がそんなんでもだ。それほどまでに命を奪うのは重いことなのだ。

 その苦悩が正義をカサに着た告発には感じられない。昨今のマスコミにも同質のものを感じる。あまりにその後の「裁いて罰を与える」という行為が社会体制の中に組み込まれ、我々自身から切り離されてしまった結果なのかもしれないが、それら一連の行為に付きまとっていたはずの矛盾に満ちた煩悶を、おれたちはいつの間にか忘れてしまった。
 実はその格闘の中で、「中庸」や「忠恕」、「寛容」といった感覚は養われて行くのだろうが、おれたちはその機会を喪くし、どんどんマニュアル化しつつあるのだ。何だかとても怖ろしい。

 そう思うと、ますますおれは口ごもる。

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 やっぱさぁ〜、コむつかしい理屈はともかく、「一寸の虫にも五分の魂」な一方で「盗人にも三分の理」なんですよ。

 ・・・・・・「殺すな」
2007.03.18
----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
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