「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
金子みすゞはそんなにエエのか?


ナカナカ気の強そうな人ですね。


1,000円でお釣りが来ます。読むべし。

 金子みすゞ、なんだそうである。
 弱者への眼差し、なんだそうである。
 人権啓蒙教育に欠かせない詩、なんだそうである。

 おぉ〜っと、「蒙」とは「道理をわきまえずバカで愚か」って意味だから、最近は「啓発」と言わねばならないらしい。モンテスキューの啓蒙思想はピー!なワケだな。啓発思想、って言わんとアカンのか?ぢゃ「蒙古襲来」はどぉするんだ?
 でも、「蒙を啓く」は意味が通るけど、「啓いて発する」ぢゃ意味不明だぞ。それこそバカだぞ。

 ・・・・・・で、金子みすゞだ。

 鈴木三重吉主催の「赤い鳥」はじめ、大正期の児童文学誌ブームのさなか彗星のように現われ、数々の詩を投稿・発表し、時の大詩人達の絶賛を浴びながらも家庭的には恵まれず、詩作を理解しない放蕩者のダンナに最後は花柳病までうつされて、わずか26歳で自裁の道を選んだ、モロ天才文学少女系の不幸な人生の人、っちゅうのが一般的に紹介されてるその伝記だ。ちなみにその存在は永らく忘れ去られていた。
 それが上記のような人権系のヨイショもあって、今や人気沸騰・大爆発。山口県は仙崎の旧居は記念館となって、いい観光資源のひとつである。
 作品集についてはハルキ文庫から出てるのが、全てを網羅してるワケではないが、入手しやすい。学校の副教材にでも指定されてるのだろうか、古本屋でも良く見かけ、100円均一の平台に並んでたりもするので、ちょっと見られてみてはいかがだろう。

 おれは彼女の詩そのものを否定する気はサラサラない。平明なその言葉の数々が「作品として」は、激しく心を打つことも事実だ。しかしその一方でしかし、心を打つものが正しいこと、世に認められうること、とは限らないと思うし、これが何で教材となって教育の現場に持ち込まれるのかは良く理解できない。
 それどころか、行き過ぎた感受性は神経症的で薄気味悪いもんだなぁ〜、とさえおれは少し思ってる。何見てもいちいち弱者のコトばっか考えてるその眼差しが、意図的な芸風だったのならまだいいけれど、もし100%マジだったのだとしたら、それはいささか平衡を欠いているし、かなり偏狭で頑迷な気がする。
 もっと平たく言っちゃうと、その精神構造にとても不健康なものを感じるのだ。

 それはまるで平安時代のひ弱な公家の姫君だ。秋風が立っても、雁が飛んでも、夕日が沈んでも、暑くても寒くても晴れでも雨でも盆暮れが来ても、何が何でも「あはれあはれ」で、山越えて阿弥陀が来迎して極楽往生することばっか考えて、そのくせ山賤のオトコなどにはビビるだけで歯牙にもかけないふてぶてしさも併せ持った、その後ろ向きな精神の不健康さと大して変わりない。

 ちょっとおかしい。

 おかしいんだけど、その不健康な精神世界から生み出された数々の和歌が美しいように、金子みすゞの童謡は美しい。そしてそれが文学であり、詩歌なんだ、ってコトを、いいオトナのおれたちは理解し、子供たちに教えるべきだと思う。それこそが教育ってモンだろう。

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 そうそう、「神経症的な繊細さ」では、E・A・ポーの名作「アッシャー家の崩壊(The Fall of The House of Usher)」の出だしに引用された詩をおれは思い出す。

 ----彼が心は懸かれる琵琶にして、触るればたちまち鳴りひびく(訳:佐々木直次郎)

 このあと、嵐の夜、死んだはずの双子の妹マディリーンが生き返って、なぜかそれと同時に陰気な沼沢地帯に屋敷が真っ二つに割れて沈んで行くラストシーンまで、まことにシュールだが、「土曜ワイド劇場」もビックリのご都合主義のカタマリのようなストーリーが展開するのだけれども、ともあれ、「触るればたちまち鳴りひびく」ような感受性なんて、うるさくって仕方がない。こんな人が四六時中近くにいたら、まったくもってウザいことこの上ないし、かなりイライラすること必定だろう。

 だからおれは、一方的に人権派の言説によって、えらくゾンザイにただの悪者にされてる、金子みすゞの「放蕩者のダンナ」とやらが、実際果たしてそんなに悪かったんかいな?って思う。当時の片田舎の商人としてはむしろ平均的で、普通の「俗な小市民」だった、ってだけぢゃないのか?それがそんなに悪いことかぁ!?

 つまり、見方を変えればこんな見方も可能なわけだ。

 商売してて忙しく、日々皮相な現実に向き合ってるっちゅうのに、家に戻れば妻は何だか辛気くさいひねくれたものの見方の詩作に没頭してる。東京の方の雑誌に投稿して採用されたというけれど、それが日々の食い扶持になるわけでもない。そんなことより商売の方シッカリやってもらった方がマシだ・・・・・・って。

 その感性に驚嘆して理解するより先に、やはりイライラするだろうし、「忙しいねんからそんな詩ぃなんて止めてまえ!」と言いたくなる気持も分かる。小うるさいこと言わんとチャッチャと股開いて嬌声をあげてくれる芸妓や娼婦の方に行ってしまう気持も分かる。別れる、となったら、風がそよいでもヒヨヒヨするような、こんな考え方のに子供任せたら、とても一人でやってけるシッカリした人間に育つとは思えん、と判断するだろうコトも分かる。

 いやいや、別段、このダンナの肩を持ちたいワケではない。ただ、「啓蒙」を「啓発」と置き換えるほどに人権に対して繊細な感受性をお持ちの方々が、金子みすゞの行き過ぎとさえ言える「弱者への眼差し」に賞賛の声を惜しまない人々が、要はそれこそ「蒙」な商売人だった男の人権や視点に対してだけはひどく冷淡で無頓着なことに、いやらしい知識人としての作為と欺瞞、偽善や傲慢を感じる・・・・・・それだけのことだ。

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 繰り返す。たしかに金子みすゞの童謡作品はどれも概して美しい。それは間違いない。一読どころか再読に値する。読むな、どころか読むべきだろうと思う。

 しかし、だからといって、そこから「弱者への眼差し」を看取することを強要される社会風潮は全くの別問題だし、ましてや教育の場で作品をテキストに、そればかりを至上のもの扱いするのは間違っている。

 優しさが弱さであることも強さであることも、冷たさが弱さであることも強さであることも、そして時として優しさであることも、また、人間や社会が弱者を喰らいながら生きる、どうしようもない愚かさと業を背負っていることも教えないとね。

 蝶よ花よ、だけでやってけるかいな、っちゅうこっちゃね。


2006.06.17
----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
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