「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
吹き寄せられて


井上井月。「無能の人」の中でつげは「井月も山井も大馬鹿ものだよ」と言うが・・・・・・。

http://ameblo.jp/gaju-kuma/より

 ---落栗の座を定むるや窪溜り---

 つげ義春の1985年から翌年にかけての連作、「無能の人」の最終話である「蒸発」は、幕末から明治初期の俳人・井上井月をモチーフにしたストーリーである。かつてこの作品を通じて、おれは初めて極めて特異な井月の存在を知ったんだけど、その代表作の一つがこの落ち栗の句だ。話は逸れるが、つげはこの後、2作ほど短編を書いて筆を絶ってしまいそのまま今に至る。多分もう新作は描かないだろう。

 それはさておき、フツーにそのまま字面だけ読めば極めて平明な内容である。「落ち栗の居場所って、地面の窪みが決めるんだよなぁ〜」ってそれだけ。オマケに井月批判として言われる通り、スケール感に乏しくちょっとチマチマしてる。
 しかし30代の終わり頃、どこからともなく飄然と伊那谷にに現れて何となくそのまま居付き、以後30年近く蕉風の美意識の中核的な概念である「漂泊」を原理主義的に身を以て実践し、最後は行き倒れて亡くなるまであちこちの家を訪ねては寝食を乞うて放浪し続けた人の詠んだ句と知れば、自ずとそこに凄みは生まれてくるってモンだろう。落ち栗は井月自身であり、窪溜まりは伊那の地であることは申し上げるまでもない。

 まるで他人事のように突き放してサラッと己を自然の事物に喩えて詠んでしまう明るい虚無を、おれは読み取ってしまったのだった。ちょっとゾッとした。

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 構えてるサイトの一部である掲示板で拙サイトについて、過分のお褒めの言葉を頂戴することがある。もちろん悪い気はしない・・・・・・どころか素直に結構嬉しかったりもする。自分の評価は他人がするものであるから、それで望外の言葉を賜るのはとてもありがたいことと言えるだろう。先日なんぞ、「日々の努力」とまで書かれた。まことに面映ゆい限りだ。

 でも・・・・・・おれ自身はそらまぁたしかに生活の多くの時間を割いてるとは申せ、それがホンマに努力なのか?っちゅうとどうにもフクザツな気持ちになってしまうのだ。誉め言葉に対して躊躇してしまって素直に肯首できないのは不器用の証であるコトはよぉ〜く分かってるつもりなんだけど、それでも自分自身としては努力もヘチャチャもホチョチョも、ただもうこれくらいしかやれることが残ってない、って気持ちが強い。到底ホメられたモンちゃうんやけどなぁ〜・・・・・・って思ってしまう。
 そもそも努力には必ず目標ってモンが付き物だが、おれにはそれが無いのだ。目指すべき方向が無い。ぢゃ、なんでやってるのか?

 ・・・・・・こうでもしてないと生きてる気がしない、と言えばいささか気障に過ぎるかな?

 そうそう、山岸涼子の傑作・「日出処天子」のラストシーンだった。主人公の厩戸王子が心の底から求めた蘇我毛人にフラれて世捨て人みたいになって、狂った少女を妻に迎えて斑鳩宮に籠って遣隋使を出すことを画策するんだけど、そこでそんなセリフが出て来たことを想い出した。
 知略の限りを尽くして崇峻天皇を暗殺し、推古女帝を擁立、自身は名より実を取って摂政として遣隋使の他にも冠位十二階やら十七条の憲法やら辣腕を振るったのは有名な史実だが、鬼才・山岸の描き出す内省的な物語ではそれらの原動力をそのように解釈している。そしてそれは恐らく作者自身が作品を生み出す気持ちではないかって気がする。
 もちろん彼女は職業的マンガ家であるから、作品を描くことで食ってる・・・・・・即ち収入を得てるワケだけど、それでもなおやっぱし描いてないと生きてる気がしないのではないかと思う。

 おれはこうしてサイトをコツコツ拵えはしてるけど残念ながら一銭も得てない。そいでもって金にならないことに注力するのを世間一般的では趣味と呼ぶ。ならばこうして続けてることは趣味なのか?・・・・・・う〜ん、何かちゃうんだよなぁ〜って思う。かといって外界に一応ちょっとは開かれてるからアウトサイダーアートでもないしなぁ・・・・・・。

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 何だかおれは仕方なくここに行き着いて、こんな風にやらざるを得ないからやってる・・・・・・っちゅうのが一番ホントのトコなのかも知れない。

 若い頃から興味の赴くままにあれこれ色んなことにクビ突っ込んで、ヘンに小器用なのと、イラチの貧乏性でオットリ構えることができない性分だから、ツルッとそこそこまでは行けてしまえるんだけど、どれもこれも中途半端で飽きたり、限界を感じたりして投げ出してしまうようなトコがおれにはある。そうして音楽も楽器も書き物もアウトドアも単車も自転車も・・・・・・カメラはまぁ現在進行形だけど、これまでがこれまでだけにとても不安だ。ちょっと救いがあるとすれば、何年かおきに回帰することが多いことくらいか。
 そして振り返ると、おれの後には足の踏み場もないほどに雑多なガラクタが転がってる。さらに厄介なコトにガラクタは今なお増え続けている。何一つマトモに成し得なかったし、これからもまずないだろうって想いが強い。
 ならばせめてそのガラクタをちったぁ整理・整頓して一纏めにしよう、ってそれだけなのである・・・・・・あんまし片付いては無いけどね(笑)。

 大体、そんな人生を歩んでるのはそらひたすら自分の責任であって、誰に帰するものでもないのは百も承知だ。結局、薄弱とはいえ自分の意思で選択的こうしてやって来てるんだから。
 それでも尚、「吹き寄せられて今ここにいる」ってな気持ちが募るのはなぜなんだろう?挫折なのか失意なのか喪失なのか、はたまた全く逆で飽くなき強欲なのか?最近のドラマぢゃないけど「タラレバ」を小難しく言ってるだけなのか?取り敢えずは仕事しながらさほどの不自由もなく食えてるんだし、贅沢な憂悶なのか?

 ・・・・・・良く分からない。

 一つしかし励みになる言葉もある。つげ繋がりで彼がアシスタントを務めてた水木しげるの「幸福の七か条」ってのがそれだ。またまた脱線するが、「ドブ川に死す」って短編で、水木プロに入って来た生意気で失礼な新人アシスタントがストレスになって失踪する先輩アシの「三毛さん」、ってのがつげのコトである。もちょっと脱線するとこの短編はほぼ実話で、この新人を体よく追い払った先は実は「堕靡泥の星」の佐藤まさあきのトコであり、本当にこの男はその後フーテンの仲間入りした挙句、新宿御苑でラリッて溺死している。
 そんな水木は早くからつげの才能を高く買っており、ワザワザ尋ね人の広告まで出してつげを招いたってエピソードが残っている・・・・・・で、水木サンの幸福になるための箴言だ。

   第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。
   第二条 しないではいられないことをし続けなさい。
   第三条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。
   第四条 好きの力を信じる。
   第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。
   第六条 怠け者になりなさい。
   第七条 目に見えない世界を信じる。

 ニューギニア戦線で死線を彷徨い、復員してからも極貧に喘ぎながらしぶとくマンガを描き続けた人の言葉だけあってムダな迷いが無い。この言葉に当てはめて考えるなら、おれはかなり幸せなのかも知れないな。

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 ウダウダ述べた通りで、クラゲのようにあっちにフラフラ、こっちにフラフラとしてるうちにサイトは巨大化した。ちょっと前まで1,500っつってたんだけど、チャンと数え直してみたら今は1,700ページ近くに膨らんでる。このまま行けばもっともっと増えるだろう。htmlベースでここまで増殖してるサイトもそうそう無いだろうとは思うものの、それが良いコトなのかどうかはもぉどうでも良いわ。

 ああ、水木しげるで想い出した。「太歳」という中国の妖怪がいる。地中を木星の進行に合わせて蠢く赤い肉塊で、身体じゅうに眼が付いており、ひじょうにグロテスクなヴィジュアルである・・・・・・で、これが掘り出されることは大変な凶兆であって、すぐに埋め戻さないと一族郎党が死に絶えてしまうと信じられているのだが、一方で食べれば不老不死になれるとも言われており、何だか良く分からないヤツだ。黙って埋め戻されたり食われたりするくらいだから、恐らく暴れ回ったりとかは無いんだろう。
 一説には群体化した粘菌が正体ではないかとも言われるが、妖怪に余り科学的な解を求めても仕方ないっちゅうねん。まぁ下の図に掲げた通りのブヨブヨして不定型なあやかしである。

 おれは睡眠時間を削ってまでして、せっせとネット上にそんな妖怪を育ててるような気がして来た。落ち栗は窪溜まりに集まった挙句、太歳に進化するのかも知れない。掘り起こしたら危ないで(笑)。


これが太歳。

2017.03.12

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