クリスマスも近いというのに、ちょっと今回はイヤな話だ。
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当時おれは高校三年生で、冬休みに入って最後の受験勉強の追い込みっちゅーモノをやっていた。今では想像もつかないが、おれは高校生までは勤勉そのもの、とゆうか、何だかマシンのように量をこなしていくようなところがあった。
そんなワケで、その日も朝からゴリゴリと、目前に迫った共通一次試験(今のセンター試験の前身やね)に向けて、えらいスピードで問題集をやり散らかしている真っ最中だった。横にちっこいAMラジオを置いて。そういえば高校三年の一年間、おれはテレビを見なかったような気がする。
ニュースの時間になった。全国ニュースに続いて、地方局からのローカルニュースが流れるのが寸法だ。
------今朝、河内長野市の山林で若い男性の凍死体が発見されました。所持品から、今月**日より行方不明となっていた、同じ市内に住む**県A高校二年、H本**君と判明しました。家族の話によるとH君は冬休みで帰省しましたが、成績が下がったことを家族に注意され、その後行方が分からなくなっていたものです・・・・・・。
おれはギクッとした。その名前と似たような事件の経緯に覚えがあったのだ。でも住所・学年が違っていたし、ラジオでは漢字氏名までは判らない。ニュースは次の内容に移り、おれは気持ちを切り替えて、また問題集に向かい始めたのだった。
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記憶はさらに遡る。
中学一年の初めから、当時スパルタ教育で錚々たる高校にたくさんの合格者を出すことで超有名だった、大阪・帝塚山にあった某進学塾におれは通わされていた。
実際に行ってみると、男は全員坊主頭、っちゅー妙ちくりんな規則が死ぬほど嫌だったが、そんなスパルタでドツきまわされるとか、カリキュラムを詰め込まれる、なんてことは全くなく、むしろ運営があまりにメチャクチャなのに驚いた記憶がある。時間割はほとんどなし、自習多い、2年生になると下級生の面倒を見る、1〜2ヶ月に一回クラス替えテストがあるけど、タマにキブンで全学年バトルロイヤルになったりする・・・・・・建物にしたって、「新館」と呼ばれるところは6階建てくらいのビルだったけど、「旧舘」「新々館」はただの旧い民家を改造したもの。つまりは、「洗練」からはほど遠い野盗集団のような荒々しさが気風だったような気がする。
そんな塾で、クラス替えはしょっちゅうだったとはいえ、その内大体メンバーは固定化されてくる。そんな中に堺の方から通ってくる、「サイコロ」って直截なあだ名のH本君がいた。あだ名の由来はアタマが見事に正六面体のようになっていたからで、坊主頭なので実に目立っていた。
親御さんから大事にされていたのだろう、ほとんどの連中が夜食は近所から売りに来るパンと牛乳で済ませていたのに対し、彼はいつでも一つ一つのオカズが丁寧にラップやアルミホイルでくるまれた弁当を食べていた。箱入り息子過ぎて箱型の頭になったのかもしれない。
余談だが後年、このパンか牛乳かどっちか忘れたが、売りに来ていた近所のお店が、タレントのラサール石井の実家であることを、彼の書いたものか何かで知った。彼は塾の先輩に当たるらしい。芸名の通り、鹿児島ラ・サールに進学したのだから、相当成績優秀だったことは間違いなく、塾では勝ち組の一人と言えるだろう。
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さて、そんなそこの塾の名物が、夏休み・冬休みを利用して兵庫県の山中で行われる「合宿」だった。夏は10日を1クールとして、冬は短いので1クールしかなかったが、行けばひたすらテスト・テストの繰り返しで、「おはようテスト」「おやすみテスト」「越年テスト」「新年テスト」どれもこれもバカバカしい名前がついてて、後はひたすら自習。これまたちゃんとした講義はほとんどなかったような気がする。
それぞれのテストには表彰式があって、成績優秀者には理由は分からないが「パイナップルの缶詰」が配られる。一位ならパイ缶10個、とかね(笑)。デキのいいヤツは合宿が終わると100個以上パイ缶が貯まっていた。
中学二年の冬の合宿だった。どこからそうゆう話になったのかはわからない。名前の記憶はかなりおぼろげになっているが、おれやU、N、Yその他を含めて5〜6人が固まって自習していて、いつの間にか「誰かの顔にマジックだかサインペンだかで落書きする」ってコトになったのである。餌食は何となくH本君に決まった。
「ついてへんで〜」とか言いながら皆で巧みに塗って行って、あっという間に、元々ユニークな彼の顔はさらに剽軽な状態となった。まぁ、ちょっと過激だが、子供らしいイタズラと言えばイタズラだ。自分たちは顔洗えば落ちるもんだし、すぐに気付くだろうとと思っていたのだが大間違い。彼はそのまま気付かず、インディアンと京劇面を一緒くたにしたような顔でノコノコ歩いているところをセンセに見つかった。
その夜、悪巧みに連座した者全員が呼び出され、ドツかれて「下山」となったのは言うまでもない。そういうことには厳格だったのだ。かわいそうなのは被害者のH本君で、彼まで一蓮托生でドツかれ、下山と相成ってしまった。
・・・・・・しかし、本当の問題はそれからだった。翌朝、下山させられて蟄居させられた普段通うの塾の一室から、彼はいなくなっていたのである。無論、「どこ行ったんや!?」と塾内は大騒ぎになり、おれ達も近所に探しに出ようとしているところに、鉄道会社から連絡が入った。
未明の大和川の鉄橋の上をフラフラ歩いているところを保線員に保護されたのである。
元々善良で、真面目で、乳母日傘で育てられたであろう彼は、マトモかつ理不尽に叱られたことがなかったのかも知れない。一種のパニック障害、もっと悪く言うと早発性痴呆のような状態になっていたのだ。身元も全くわからず鉄道会社も困り果てて、坊主頭からよもやと思って電話かけたらビンゴだったわけだ。親元に連絡したが、残る家族で旅行に出かけたみたいで不在。
しかし、その内彼も落ち着きを取り戻し、普通に会話も交わせるようになり、一過性のものだろうという結論になった。結局、謹慎も一日で解け、再びおれ達は合宿所に戻ることになり、全てが片付いたように思った。
おれ達も、センセたちもいささか事態を甘く見ていたようである。事件はさらに発展した。
H本君には、よほどこの経験がストレスだったのだろう。戻ったその晩、再び合宿所から姿を消し、翌朝、下の村で氷雨に打たれながらずぶ濡れで彷徨っているところを村人に保護された。事態はどんどん悪い方に向かっている。おれ達騒ぎの発端となった悪童共は、その晩、彼を取り囲むように寝ることを命じられた。
寝てしばらくすると、急に起き上がって外に出て行こうとする、おれ達は口々に「おい!どこ行くんや!?」とか言いながら、みんなで身体を抑えたのだが、それをはねのけるほどの尋常でない力で彼は暴れ始めた。もう、子供同士の自主性で何とか解消できる問題ではなくなってしまっていた。
そうしてそのまま、彼は合宿所からだけでなく、塾からも去って行った。
それから数ヶ月後、何人かで阿部野橋に出掛けた折、チンチン電車の中で彼に出くわした。横には父親らしき人が座っており、おれ達はずいぶん気まずい思いのまま、「もう大丈夫なんか?」とか何とか、当たり障りのないことを二言三言話して別れた。彼はやや元気はなかったが、それでも笑顔だったので、おれ達がホッとしたのは言うまでもない。
それがH本君の顔を見た最後だ。間もなくおれ自身もその塾を辞め、普通に公立高校に進むことになった。
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大学生になって数年が過ぎた頃、おれは一乗寺下り松の裏手にあった、「K」という小さな素人料理屋のけっこうな常連だった。余談だが今ここは京都を代表する飲み屋チェーンに成長して、あちこちにファミレスと見まごう規模の巨大店をいくつも展開している。しかし、当時はまだ、元田中に支店があるだけの個人店だった。
そんなある夜、行くと新しいバイトが入っている。インド人の血が混じってるんぢゃないかと思うほど浅黒く、彫りの深いその顔におれは見覚えがあった。塾でいっしょだった、そしてあの時もいっしょだったYだ。H本君と同じ中学で、いっしょに通ってたはずだ。
尋ねてみたら、やはりそいつはYだった。偶然の再会を喜ぶと共に、おれはH本君の消息を尋ねた。
------ああ、あいつか・・・・・あいつ死んだわ。
------死んだって、ひょっとしてあれか?河内長野の山ン中で凍死体で見つかったとか何とか?
------おまえ、よぉ知ってんなぁ。どこでそれ聞いてん?
------いや、そのニュースをラジオで聴いてな、名前がいっしょやから気になっててん。
------それや、それ。
やはり、H本君だったのだ。彼はその後中学浪人をし、某県の有名進学校であるA高校に合格、実家を遠く離れて下宿していたのだった。また、その間に一家は河内長野に一戸建てかなんか買って堺から引っ越して行ったらしい。
おれは在所不明の後ろめたさのようなものを感じながら、自分達にも責任の一端があるんかなぁ〜?といったことを口にした。
しばらく考えて彼は決然と言った。
------いや、それは絶対無いで。そらH本が死んだんは気の毒や。おれ同じ中学やったしショックやったわ。それに中学ン時のことが急にこう、甦って同じような行動したんも事実やろ。でもな、あんなイタズラ誰かてするし、あれはやっぱしドツかれて下山させられたんがショックやったわけや。それにな、ちょっとドツかれて怒られたり、オカンからちょっとグチグチ言われたくらいで、アタマ真っ白になって徘徊するようなんで、そんなんこれから先、世の中やって行けるておまえ思うかぁ〜!?
確かにその通りだ。Yの言うことは極めて明快で正しかったし、実際、おれもどこかでそう思っていた。そんなガラスのハートでやって行けるほど世の中甘チャンにはできてない、と・・・・・・では何故おれはその時訊いたのだろう?
簡単である。自ら主張する勇気を持てなかったおれは、その考えが多数派であるかどうか、あるいは同意者や仲間がいるかを確認したかったのだ。そして安心したかったのだ。その自分自身の卑小さを思うとおれはウンザリする。
冬が来るとおれは毎年このエピソードを想い出し、そして、いろいろな点で何だか暗澹たる気分になるのだ。 |