「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
喫茶「U」の人々


店内の情景

 学生の頃、アルバイトも何もない昼間は、下宿の裏の神社の参道にある「U」という喫茶店で時間をつぶすことが多かった。まだ激辛ブームなんてもののはるか以前だったけれど、とても辛くて美味いカレーがそこの名物だった。他のメニューにも一風変わったユニークなものが多く、今は結構ポピュラーになったグレノーラや明太子トーストなんてものが当時既に存在した。

 しかし、それ以上にユニークだったのは、そこに集う人々であった。

 本物のアーティスト、自称アーティスト、色んなアートに関わる人が入れ替わり立ち代りその店に現れては、何だかんだウダウダとみなさん時間をつぶしてたのである。本物も自称も見ただけでは区別がつかなかった。

 清水焼のお師匠さんのHさんや、人形師の名前忘れたがオネーチャン、染色家のMさん、画家のNさんなんかは、精進の結果それで食って行ってる人たちであったが、やはり職業的芸術家であるからしてそれなりに忙しく、そんなにしょっちゅう訪ねて来るわけではない。おれはこの人たちと接して、ゲージュツと言われるものに対する、感性だ天賦の才だなんちゅ−意見が、努力をしなかった者の戯言であることを少しは知った気がする。芸術家は何のかんので、芸術家である前に、強靭で冷徹な意思を持った優れた職人なのだ。だからおれは、「感性」なんてコトを平気で口走る、無神経なアートネーチャンやニーチャンを信用しない。

 そんなワケで、アタマに「自称」のつく人の方が大体ヒマなので、店でしょっちゅうトグロ巻いている。言うまでもなくこっちの方が百鬼夜行で、マンウォッチングの対象としては面白い。
 しかし白状するならば、おれも学生とはいえカテゴリー的にはこっちだった。恥ずかしい限りだ。

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 さて、その怪人どもの中に「丹波哲郎」というあだ名で呼ばれる自称「写真家」のHさんがいた。顔と声がそっくりだったのである。本職というか普段はキャバレーの呼び込みやってることを、おれはしばらく後に知った。
 そんなある日、たまたま相席になってどっからそういう話になったのか委細は忘れたけど、彼はまさしく丹波哲郎を髣髴とさせる重々しい風貌と口調で、自作の構想について語り始めたのである。
 
 ------僕はねぇ、ライフワークになるような作業を始めようと思っているんだ。足かけ3年くらいかけて、「丹後の人々の都びとに対する憧れ」みたいなものを撮ってこようと思うんだ。丹後は古来、京都との交流は深かったけど、雪深くて・・・・・・

 「おめぇ丹後ぢゃなくて丹波だろうがぁ〜っ!!」と茶々を入れても良かったのだが、おれは黙って聞いていた。こういう時は黙って聞いた方が、結局は楽しい経験ができる。

 北方騎馬民族がどぉのとか、鯖街道がこぉのとか、大江山の酒天童子があぁだとか、丹後半島の伊根の船小屋は何だとか、小浜は海のある京都でそぉのとか、何だか色々聞かされたけれど、どれもこれも一度は耳にしたことばかりで、さほどの目新しさはなかったが、重々しく語りまくる迫力に気圧されて、その時は気づかなかった・・・・・・そもそも、ライフワークに「3年」なんて期限をつけて語るあたりで、話には既にいささかの矛盾と言うか破綻があったし、滔々とコンセプトを語りまくる作品に概してロクなものはない。

 しかし、その時以来、ホントにHさんは店に来なくなった。ハッタリではなしに3年とやらのライフワークに出掛けたのかも知れなかった。店でもしばらくは話題になったが、次第にだんだん忘れられて、話題に上ることも少なくなって行った。
 ・・・・・・そうして1年ほどたったある日、店に行くと久しぶりに丹波が座っているではないか。丹後のライフワークはそれなりに成果が出たのか!?一時帰京か?

 ------お久しぶりです。
 ------ああ。
 ------どうだったんですか?
 ------ああ、まっ、色々あってねぇ・・・・・・いやぁ、僕はねぇ、実は今は4年越しのライフワークになるような作業を始めようと思っているんだ。「紀州や熊野の人々の都びとに対する憧れ」みたいなものを撮りたいと思ってるんだよ。古来、熊野は熊野詣とかで云々かんぬん・・・・・・・・

 ・・・・・・・開いた口がふさがらない、とはこのことだ。スッカリ忘れちゃってる。丹後はどうなったんだ?丹後は?おい!丹波よぉ!!

 この人、マスターから聞いたところによると、元は関東の素封家に生まれ、父君は某大学の学長まで勤めた方だという。若い頃は映画会社のカメラマンをして妻子もあったそうだ。それのどこがどうなってライフワークオヤジなのか見当もつかなかったし、どだいその経歴だって本人の話したところなので、真偽のほどは分からない。当時すでに40台の後半であったから、もし、今存命ならばもう70近い年齢のはずである。

 ともあれ、今度はホントにそれっきり、店に「丹波哲郎」ことHさんが姿を現すことはついになかった。熊野の人々の心を知るために、補陀落渡海でも試したのかも知れない。いやホント、積極的にそうした方がいい、命と引き換えでいいからトコトン懲りた方がいい、とおれは心の底から思っている。

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 丸太町にあった無国籍飲み屋「C」の店員をしてる芸名Bさんもまた、自称「写真家」であった。芸名と言うのは、この人には別にちゃんと本名があって、写真家としては「B」という名前を使っていたのである。年のころは40前、細身で日焼けしてどことなく猛禽類を思わせるギョロッとした眼が精悍な、それでいて笑うと愛嬌のあるオッチャンである。
 この人はそれでも、画廊を借りて個展を開く案内ハガキを出していたりもしたから、写真家で食っていけない、というだけで、口先だけの丹波よりは100倍マシだった、というか病んでなかった気がする。それにグダグダ理屈をこねないところもサッパリしてておれは好きだった。
 どこか、無鉄砲な中学生が夢を抱いたまま大人になったような、稚気溢れる雰囲気があった。

 しかしながらこういう「自称」がつく人に共通する欠点として、夢はまぁまぁよいのだけれど、その後の努力や根気や辛抱や精進がやはり足りない。
 この人、年に半年は店を休んで、撮影旅行と称してタイのコサムイっちゅートコにバカンスに行くのである。

 何でもまだあまり日本人に知られてなくてプーケットみたいな喧騒がなく、それに物価がメチャクチャに安くって、日本円にして1日数百円もあれば、粗末だがちょっとしたコテージを借り、三度三度のご飯も地元民相手の食堂で食べれるのだそうだ。辛さは心配しなくていいらしい。中華料理屋がいくらでもある。ついでに言うならハッパにも不自由しない。楽園だ。
 そして、椰子の木と海と青空だけが写った写真をバシャバシャ撮って帰ってくるのだ。おれも一度チョコッと見せてもらった。確かに綺麗な椰子の木と海と青空が写っていた。でも、言ったら悪いがそれだけの退屈な写真だった。リゾート地の日々の倦怠を表現していたのだろうか。ハハハ。

 6ヶ月働いて、6ヶ月遊んで暮らす。それこそ「丹波」は篠山のデカンショ節だ。正直ちょっとうらやましい。でも、だ。アナタは志を持って源氏名までつけて写真家としてやってこうとしてるんやろ?それがコサムイだかなんだかリゾート地で、ハッパ決めつつリリリのラリリで言い訳みたいにしょーもない写真をダラダラ撮ってていいのか?
 ・・・・・・とおれは思わず乱暴な言葉を吐きそうになったが、その憎悪や苛立ちが自分自身にも向けられたものであることに思い至り、どうしても口には出せなかった。

 そうだ。おれの音楽はどうなってるんだ?思いつきのように尚賢館に友達集めて、暴れるだけのライブやってそれっきりぢゃないか!?小説らしきものもいくつか書いて、ツテを頼って出版社の編集に読んでもらったトコで腰が引けてそれっきりぢゃないか!?精出してるものと言えば、結局バイトと毎晩の酒だけぢゃないか!?

 無論、そんな気弱に眼を伏せたおれの、内面の葛藤にBさんが気づくわけがない。呑気にコーヒーを飲みながらタイの話をまだ続けている・・・・・・・・・。

 ・・・・・・何年後かに、太田久美子・町田町蔵主演で山本政志監督の「ロビンソンの庭」というちょっと前衛的な、緑がやたらきれいな映画が公開された。おれはその時は見ずに、さらに数年して会社員になった頃、レンタルビデオで見た。
 その中に、ウロ覚えで申し訳ないが、こんなセリフがあった。

  ------(太田)あたし、コサムイ行くねん。
  ------(町田)コサムイ〜!?それどこや!?コサムイ、ちゅうくらいやから、そこ寒いんかい?懐炉やろか?

 セリフもおもろいが、おれはBさんのことを思い出して何だか笑いころげたのだった。そうだ!あの時、懐炉でもあげとけばよかった。

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 坊主頭のNが店に現れた。おれはこいつが大嫌いだった。灘やラサールと並ぶ関西の名門進学校「甲陽学院」を出て京大に進み、そしてバーン&スピンアウトしちゃった30半ばの詰まらない男だ。早熟の秀才の成れの果てだ。この寒いのに今日は裸足で来やがった。裸足だとスゴいとでも言われるとでも思っているのだろうか?オメェ、完全に病んでるだけやんけ!!

 ともあれ彼は、「パフォーマンスアーティスト」らしかった。ただし活動実績皆無の。

 「パフォーマンス」と言うコトバは、21世紀になった現代ではあまりに恥ずかしくて誰ももはや使わんけど、80年代初頭でもすでに相当恥ずかしかった。
 で、コイツの華々しい(?)活動歴は、結局一つしかない。高槻のライブハウスだかフリースペースで、「尻の穴に花火を突っ込んで全裸で踊った」というものである。そんなん、体育会系の連中ならコンパでしょっちゅうやらされてるって。
 この日も意味ありげなチラシを何枚か持ってきた。見れば、当時は法外な値段がしたカラーコピーである。それで内容は、というと単に12月25日に岩倉のスペース借りてX’masパーティーをやるんだとさ。中身はなぁ〜んもなし。ホンマどこまで行ってもアホはアホで、誰からもあまりマジメに相手にされていなかった。

 そんな彼が凄かったのは唯一、「余人が真似できぬほどに暮らしが刹那的だった」、その一点だけである。

 ある時から彼はパッタリ店に来なくなった。元々余り相手にされてないので、誰も気にしない。そして8ヶ月か9ヶ月が過ぎたある日、元々ヒッピーまがいのボロボロのヨレヨレだったのが、まったく乞食同然のカッコで再び店に現れたのである。さすがにみんな驚いた。

 聞くと、北海道まで昆布取りに行ってたという。しかしそれで乞食同然のカッコになるはずがない。昆布取りのバイトは死ぬほどキツいが、金になることで密かに有名なのである。「死体洗い」ほどではないけれど、半ば都市伝説と化した幻のアルバイトだ。
 送られてきたキップと地図で最果ての漁村に着いた彼は、浜小屋に寝起きさせられて、それこそ昼夜の別なく昆布を引っ張らされたらしい。そんな生活が1ヶ月ほど続いて昆布漁は終わり、手許には50万円ほどの大金が残った。
 地元の漁師はこうして漁が終わると、札束を懐にねじ込み、軽自動車で隊列組んで、大挙してススキノに向かうらしい。で、打ち上げに2週間、飲んで飲んで飲みまくり、ヤってヤってヤリまくる・・・・・・止しゃぁいいのに、Nはそれにくっついて行き、そして札幌の町で一文無しになった。
 北海道の人は情に厚いと言われる。しかし、自己の責任でスッカラカンになった人間に憐れみを垂れるほど、間抜けで見境のないお人好しではない。彼等は元の道東に帰り、彼は一人取り残されたのである。 さすがにアホのNも、知己もいない北の町で途方にくれた。帰るしかない。
 死ぬる思いでヒッチハイクし、ようやく東京まで辿り着いたところでついにハラが減って動けなくなり、今度は新聞屋に転がり込んで、当座のメシ代と帰りの路銀を稼ごうとしたものの、小銭が入るとついついそのまま飲んでしまうので、帰るどころか給料の前借りさえ返せないありさま。そのままズルズルと6ヶ月近くが経ち、最後の力を振り絞って帰ってきた・・・・・・

 あまりにできすぎた話であったが、主人公がNならやりかねない。彼も疲弊しきっていて、いつものバカやって鬼面人を驚かす態度とは少し違っていた。店に居合わせた連中も、あまりに常軌を逸した彼の刹那的行動には笑い飛ばしきれないものを感じたのか、いつの間にかみんな黙っている。

 彼はその後数回、立て続けに店に現れたものの、再び消息を絶った。何でも、あまりの息子の奇行を心配した父親に、実家に連れ戻されたということを人づてに聞いた。
 彼のやる、そのように徹底して無意味なバカは、畢竟、自分自身や親に対する自裁であると同時に復讐だったのかも知れない。

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  昨年、下宿「K村荘」の同窓会が開かれて、おれも久しぶりに京都に出かけて行った。喫茶「U」は色々事情があって休業中であったが、マスターは快く店に招き入れてくれた。店内は少し荒れた感じはあったものの何もかも昔のままだった。昔話で盛り上がり、そしておれは、彼等の消息を聞かされた。最後にそれを記して終わろう。

 丹波哲郎のHさんは完全に音信不通。マジで西方浄土か!?

 コサムイのBさんは、どういう経緯があったのかは不明だが、数年前に高嶋易断の大家と知り合い、見込まれ、現在はそのマネージャーとして全国を飛び回る多忙な毎日をすごしているとのコト。何だかいかにもってカンジで実にめでたい。写真家は、見切りをつけて廃業したそうな。

 奇行が過ぎて父親に実家に連れ戻されたというNの噂は、事実だった。そうして長く座敷牢みたいなところに閉じ込められたりもしたけれど、結局は親の援助で、今は学習塾を開いて先生をしているらしい。
 恐らく彼は今は穏やかに暮らしているのだろうが、あるいはしかし、しがらみから逃れ切れなかった今の方が、彼にしてみれば廃人人生なのかも知れない、とおれはその時少し思った。

2004.10.12

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