「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
Day by Day at 酒屋

 1983年の初夏から翌年の初頭にかけての約半年あまり、おれはロクに大学も行かず、ほぼ毎日壬生寺の近くの酒屋で配達のアルバイトをしていた。元々は下宿「K村荘」の友人K西が始めたものだったが、一ヶ月もしないうちに「何とも気が滅入るんやわ、あそこ」と彼が言い出し、それにおれが興味を示してワンショットで紹介されたのが、ナゼか気に入ってそのまま居ついてしまったのだった。
 まだ、酒のディスカウントショップも量販店もない、個人店が定価でやっていけるのどかな時代であった。

 時給は550円、ケッコー時間はサバ読んでくれるのでおいしかった。しかし、一日の勤務時間は結構長く、朝の9時から夕方の6時までのほぼ終日だった。
 その時のいろいろな見聞は当時のおれにインパクトを与えるもので、かなり詳細な記録を物語風に日記につけていた。このオリジナルのノートは今は紛失したが、89年ごろに編集したものが引越し荷物の整理をしていたら出てきた。
 ずいぶんバカバカしいエピソードもあったのに、若い頃は「憂鬱愛好症」だったせいか、原文ではそれらはほとんど語られていない。そのため、編集の際に思い出した事柄について加筆をかなり行っている。

 辞めたのは有名な壬生寺の節分祭りの頃だった。特に退職したい理由があったわけではない。中期の免停を喰らい、その執行が迫って配達を続けることができなくなったのだ。最後の出勤日、ものすごく寒くてみぞれがベチャベチャ降ってたことを鮮明に覚えている。

 少々長くなるが、以下は、その編集版を今回さらに、若干手直ししたものである。具体的な名称は全て仮称にしてあることを最初にお断りしておく。



----壬生の町並----

 現在、 私は中京区のとある酒屋で働いている。店の表に出ると山陰線の灰色のコンクリートの高架が向こうにそびえ、赤い機関車に引かれた紺や茶色の長い客車がノロノロと行くのが見えたりする。隣は薬屋で、表には皮膚病の実例写真の載った気色の悪い看板が置いてあって、ペンキが剥げ落ちた観音開きの扉とともに何ともうらぶれた感じがする。それは何も薬屋だけのことではなく、斜め向かいの散髪屋は色褪せたカーテンがほとんど終日かかっていて、あのトリコロールのだんだら棒もなく、客が入ってるのを見たことがない。角を下ったところにある中華料理屋は店を畳んでどれくらいになるのか、埃の積もった陳列棚はがらんどうで、入口のドアはふさがれたままだ。そう、ここは商店街のはずれ、ただでさえも場末の町なのだ。通りには老人の姿ばかりが目立つ。過疎化の進んだ村と同じだ。
 近くには狂言と新撰組で有名な壬生寺があって、その崩れかけた土塀は雨が降るたびに、赤茶けた水をいく筋もアスファルトの路面に流している。通りの向かいはうどん屋、ここは割と流行っていてる。

 たまに町に洋酒とカラメルを混ぜたような甘い香りの流れるときがある。松原通に専売公社の工場があって、缶ピースを製造する日にはその香りがするのだと、そのうち教わった。
 また、しばらく行くと「ロバのパン」の本店があったりもして、週に何度かは古風なガラスケースのリヤカーにパンを積んで自転車で引っ張る老人がゆっくりと店の前を通り過ぎていく。寺山の映画を見ているようだ。

 この近辺は友禅染の町であって染物屋が多い。ごく普通のしもたやに見える家の玄関を開けると、中で図柄を描いていたり、反物が積んであったりする。しかしどこも不況で景気が悪く、少し注意して町を歩けば、差し押さえの札の貼られた家の二軒や三軒すぐ見つかる。
 かつて栄えた頃の賑わいや羽振りは、それは、酒屋の店の奥に埃かぶってそれこそ山のように残っているホンモノの洋酒類を見れば分かる。昔は旦那衆によく売れたのだそうだ。町全体が、ゆっくりと、陰鬱に崩壊している感じがする。

 さて、酒屋は、と言うと、七十をとうに過ぎた老夫婦と五十そこそこの一人息子の三人でやっていて、どうしても若い男手があと一人必要なために、私が雇われている次第である。件の息子・・・・・・といっても充分初老のオッサンなのだが・・・・・・は、もっぱら自動車で木屋町や祇園のスナック・バー・飲み屋・レストランへの配達を受け持っていて、あまり家にはいない。何時間おきかに帰ってきては、洋酒の空き瓶をドラム缶の中にポンポン割りながら投げ込んでいるのを見かける。そして私は、カブに乗っては、近所の小口の配達を受け持っている。

 配達の合間に婆さんがボツボツと私に話した身の上話によると、この家の状況は次のような具合らしい・・・・・・親子揃って同志社を出ていること、そんな関係で今までアルバイトの求人は同志社の学生課に出していたこと、自分の家以外の親類はみな学校関係の職についていること、そしてそのツテから息子に嫁をもらったけど、商いに馴染めず逃げ出してしまったこと・・・・・・。

 何となく想像していた通りだった。この家もまた、緩慢に滅びつつあるのだ。


----うどん屋の人々----

 向かいのうどん屋のことを書こう。一方通行の通りを挟んでいるだけなので3mくらいしか離れていない。そこの主人は50がらみのの非常に愛想のよい男で、朝など、自転車のカゴにネギやら何やら一杯に買って来るのを見る。そしてその母親であるガラパゴスオオトカゲに似た婆さんと、後妻なのか何なのか、親子くらい歳の離れたまだ三十そこそこの奥さんらしき人と、岡持ちが二人・・・・・・一人は妙なことに近所のお好み焼き屋の主人で、もう一人は染工場のボイラーマンが本業という、訳の分からない組み合わせである。ボイラーマンはヒマかもしれないが、この横山やすしに似たオッサンのお好み焼き屋はかなり繁盛している。なぜそこを放り出して手伝いをしているのかは不明である。
 さらに奇妙なことには、そのうどん屋は明らかに店舗兼自宅なのに、昼前になると飯食いにどこかからやってくるべスパに乗った若い息子がいる。同居してないみたいだ。

 店の中はいかにも、といった雰囲気で、ビニール張りの椅子と薄緑で大理石柄のデコラのテーブルが並んでいて、そのテーブルの下の棚には、何ヶ月も前のボロボロになった女性週刊誌が入っていたりする。完璧な小道具類だ。
 二・三週間に一度の割合で、醤油や酢を手押し車で私が運び、その引き換えなのかどうなのか、こちらはだいたい毎日何がしかの出前を取っていて、配達から帰った息子がえらい勢いで天丼をかき込んでいる姿を見かけることが多い。私は私で、毎日3時頃になると爺さんが「冷やしウドンでも食べときとくれやす」と450円くれる。時給とは別にくれて、おまけにこの休憩は時間から差っ引かれないからありがたい。
 ともあれしかしこうして、町の人々はみんな傷口の舐め合いをしている。

 一体全体、町全部がどこか少し狂いながら回転している。お好み焼き屋のオヤジがうどん屋の手伝いをしてることも、親子くらい歳の違う夫婦のところに通ってくる息子のことも、彼等からすれば別段不思議でもなんでもないことなのだろう。
 アナーキーなまでの人間感情が幾代も積み重ねられ、澱のごとく黒ずんだ町を覆っているように見える。たかがアルバイトの私は他所者に過ぎない。たとえどんなにこの町に馴染んでいるように振舞ったとしても、私は絶対に内部者たりえない。

 あるとき配達で道に迷った。京都特有の表の長屋のトンネルのような通路をくぐって奥の長屋に抜けたら、そこに建物はとうになく、空地が白々と広がっていた。その時私は、その事実を天啓のようにに思い知らされた気がしたのである。


----息子----

 一度、息子といっしょに車に乗せてもらって祇園のお得意先回りをしたことがある。その時一度っきりの体験だったが、昼間の水色のポリバケツやビール瓶の空き箱が並ぶ、打ち水のされた細い通りのスナックやバーから空き瓶を集めてくる作業には、何ともいえないやるせなさを感じたものだった。
 そんな祇園の真ん中にも普通の民家が残っていて、犬を飼ってたり、あるいは首に鈴をつけた猫がこちらを睨んでいたりする。すると必ずと言ってもよいくらい、その初老の息子は低く口笛を吹き、手を差し出すのである。爺さん婆さん共にどちらも小柄だが、彼は大学時代相撲をやっていたというくらいで、その年代の人にしては非常に身体が大きい。そしてそんな彼の姿を、人通りのほとんどない昼下がりの繁華街で、背後から冷徹に観察する私がいる。

 こうして集めた空き瓶は先だって書いたように、店の横に置かれたドラム缶に叩き割って入れる。ドラム缶は2つあって、1つが透明瓶、もう一つが色付き瓶用となっており、たまに回収業者がやってくる。
 ホワイトペンと千社札でゴテゴテになった洋酒の空き瓶、それらにどのような人間模様があったのか知る由もない。けれども確実に、毎日彼や私がそれらを投げ込んで割ることで、何がしかの人間ドラマの最後の後始末を行っている・・・・・・そんな気にさせてくれる不思議な仕事だ。

 さて、その彼は五十過ぎ、私は二十歳そこそこ。いずれもひとり息子という点での一致が不気味だが、とにかく彼には独り言を言う癖がある。つとめ始めた頃、薄暗い倉庫の中で大きな図体のオッサンがブツブツ言ってるのは、何だか気味が悪かった。
 ところが、だ。一週間、二週間と経ち、自分一人で品物を用意して配達できるようになって気づいたのは、恐ろしいことだが、自分も独り言を呟いていたことであった。埃っぽいダンボールの山の中で、ぼんやりと白熱灯に照らし出された商品を探すことは、何らかのあまり良くない作用を精神に及ぼすみたいだ。

 もう少し、この息子のことについて書いてみよう。
 妻に逃げられたのは婆さんから聞いたが、その後、空瓶をいっしょに割ったりしながら本人から断片的に聞いたところによると、その妻に引き取られて生き別れになった娘がいるらしい。私は曖昧に相槌をうっていた。
 そんな彼だが、しばらく接していると独り言以外にも少々奇妙な違和感を感じる。どだい、いい歳して異常に両親に従順なのである。若旦那、と言えば聞こえはよいが、やってることは丁稚でもできるような配達だけで、店の経営に関わることは未だに全て爺さんが取り仕切っている。普通ならとっくに隠居しててもおかしくない歳の老人が、初老の、それも恰幅の良い息子にケッコー厳しくあーせーこーせーと指示を出しているところに遭遇するが、彼はひたすらイエスマンなのだ。

 先日はこういう話も聞かされた(何でそんなことまで話してくれたのかは分からない、要は孤独なのだろう)。昔、ひどく大酒飲んで酔っ払って家に帰って、両親に厳しく叱責されてからは、きっぱり酒を止したのだと言う。たしかに殊勝といえば殊勝な美談である。であるが、登場人物の年齢を考えるととても気持ち悪い。
 単なる当て推量だが、そんな彼から妻が逃げ出した理由は実は、商いの辛さに耐えられなかったのではなく、いい歳こいて乳離れしていないディペンダンスの薄気味悪さに耐えられなかったのではないか、と思う。


----染工場/壬生寺----

 染工場を何か繊細な芸術的な場所と想像したなら、それは誤りだ。あるいは他の地方にでも行けば、そういったのもあるかもしれないが、ここ壬生の町では見たことがない。私が見た限りでの染工場、そこは熱気にむせ返る、油と酢と木屑の臭気の中、いかにも中小企業のオヤジと言った風体の社長が歩き回りこまごまと指示や注意を出す、そんな世界である。
 ビニル波板の高い天井からの光に照らされ。真っ黒に汚れた機械から反物が吐き出され、丁度「子連れ狼」の大五郎が乗ってる乳母車を巨大化したような大きな木の台車にたまって行く。これが「機械染」である。多色刷のエッチングをするのと同じ要領で、銅でできた円筒の表面に絵柄が彫り込んであって、それらが色の数だけ並んだ中を、布が通って行く。つまり、染色というより印刷に近い作業である。
 他にも何やらいろいろ機械はあるが、これが一番記憶に残る。こういう工場に、午前中は染めに使うのだろうか、たくさんの菜種油を、そして午後からは工員にでも出すのか、缶ビールとおつまみを持って行く。

 黒染屋、なる商売もある。文字通り何でも黒く染める工場である。「黒く塗りつぶせ!」だな。そこへ時々、多分染めに使用すると思われる塩を持って行くが、大変きれいな事務所で意外に思っていた。ところがある日、その会社の裏口から入るように言われて見た工場の内部は、上に述べた工場よりさらにすごかった。何せ真っ黒、人も機械も製品も。シャネルズにやらせたい。そしてやはり、油と酢と木屑の臭気。

 工場ではなく、個人でやってる染屋はかなりゲージュツの香りがする。吹き抜けになった作業場に、白い生地がピン、と張られてあって、パレットを持った男がたいていは一人でうつむいて黙々と色を塗っている。どの染屋も似たような雰囲気で、男はみな、中年以上である。昔はもっと職人も多かったのかもしれないと思うほどに作業場は広い。

 近所に有名な壬生寺があることは既に書いたが、普段は幼稚園と老人ホームが境内に同居した、何の変哲もない都会の寺である。玉砂利もロクになく、土がむき出しのところに鉄筋コンクリートの本堂が建っている。それだけがむやみにでかい。たまに午前中とか境内を通ると、先生のオルガンに合わせて園児が踊る姿を、傍で車椅子に乗った老人が眺めていたり、腰の曲がった老婆がお地蔵さんにゴニョゴニョ拝んでたり、ハンチングかぶった爺さんが鳩に餌やってたりする、そんな平凡なところである。

 新撰組ゆかりの地だけあって、それにまつわる話しも多い。配達先のとある旧家は彼等のたむろする場所だったらしく、柱に試し切りの刀傷が残っているということだ。でも私は、キチンと着物を着込んで、端座して、書見台に向かって謡曲の練習してるその家の隠居の方が見てて何だかすごいと思う。


----立ち飲みの人々----

 店売りでコップ酒を売っていることを知らない人は多いが、結構よく売れるものだ。夏などほとんど毎日、古ぼけた自転車に大汗をかきながら「無精ひげを生やした恵比寿さま」みたいな顔した老人がやってきて、「冷たいのんおくれ」などと二級酒を一杯、実に美味そうに飲んでいった。
 カウンター代わりのガラスの陳列台の上には、一枚十円の煎餅、スルメ、味付け海苔、酢昆布、魚肉ソーセージ、チーズかまぼこ、スティックサラミ等々、どれもあまりパッとしない表情で置いてあって、そうしてたとえば煎餅をつまみに小瓶のビールを、あるいは海苔をかじりながら一合の酒を空けながら、店の爺さんと天気の話しをし、ホッと一息。おもむろにふところから小銭。ひぃ・ふぅ・みぃ・よぉ、ど、どうもおおきに美味かったで、とヨタヨタ。後姿は結構危なっかしかったりする。

 そんな中で印象に残っている客が何人かある。一人は変わった飲み方をする人で、店に入って来て、ビールの小瓶と冷やした酒を五杓くれ、と言う。五杓、とは即ち一合の半分で、普通そこまで小分けしては売らないのだが、どうも常連らしく、仕方なくコップに入れてやると、今度はそこにビールを注ぎ始めた。酒とビールのカクテル。試してみようという気がどうしても起きない。

 二人目はこうだ。昼食を終えて戻ってくると、店の前に全身枯葉の付いた、ミノムシのような風体のオッサンが立っている。始めてみる顔だ。揺れていた。これだけでも充分異様である。そして開口一番。

  ------兄ちゃん、男前やな!

 明らかに酔っている。ベロンベロンの酩酊状態だ。毎晩のへべれけの自分のことは棚上げして、さて困ったと思っていると、

  ------酒、くれや。
  ------はぁ、何にいたしましょう?
  ------そうやな・・・・・・あ、これ、これでええわ。ワンカップ。
  ------いくつくらいにしましょ?
  ------あるだけくれや!わしゃ酔うとるんや!

 んなもん言われんでも分かってる。それにしても酒屋で「あるだけくれ」とはなかなかに奮った意見である。結局4本渡して、適当にいなして帰らせたが、何だか唖然としながら私はそのミノムシ男の後姿を見ていた。

 三人目の人はきわめて普通に見える人であった。昼過ぎに配達から戻ると中年過ぎの男が300mlの瓶の酒を飲んでいる。酒は三分目くらい残っていただろうか、珍しくつまみも一袋300円の乾き物を食べている。
 私は再び配達に出て、そして戻ってくるとまだいる。えらい長居のオッサンやなぁ、と瓶を見ると、酒が半分くらいに増えている。二本目であった。そして、また配達に出て・・・・・・・・。
 酒屋の立ち飲みで五合も六合も飲む人が世の中にはいるんだ、と私は何だか妙に感動したのだった。普通、酒屋の立ち飲みなんて一合、せいぜい二合くらいまでをキュッ!だと思っていたので、自分の中ではちょっとした常識の破壊だった。
 これも日本酒カクテル同様試してないが・・・・・・。


----秋と葬式----

 秋の深まりと共に葬式を出す家が日ごとに目立つようになってきた。最近ではほぼ毎日のように、ひどい時は1日に二軒がこの一帯であったりする。配達の途中、花輪の列が見えなくとも、角に佇む喪服の人におや?と路地の奥を見れば、緑と白と黒の一日世界。張られた鯨幕。カゴの鳩。
 故人が生前、店と付き合いがあった人だと、爺さんは部屋の奥に引っ込むと、その小さな身体に喪服のスーツを着込んで出かけて行く。そして私はすっかり冬を思わせる空の下、何だか無聊を持て余す。不毛の町並、不毛の人々、不毛の心。
 見上げれば、今まさに高架の上の山陰線を列車が過ぎて行く。それは入換の貨物であったり、クリームと朱色のジーゼルカーであったりするのだけれども、不思議にこの低い家並みにそぐわない。何だか嘘を感じる。ここ壬生における山陰線が私はどうも好きになれない。

 そう、うどん屋のガラパゴスオオトカゲ婆さんも、朝、店の前を箒で掃き清めていたりするのに出くわすと、二言三言挨拶を交わすくらい仲良くなっていたのに、先日、しばらく見ないなと思っているうちに呆気なく死んでしまった。
 11月に入ってさらに葬式は増え、ついに同じ日・同じ時刻・同じ通りで葬式が出るということまで起きた。行き先間違える弔問客はいるし、狭い通りは黒塗りのハイヤーがウジャウジャして渋滞しているし、片方が出棺済んだものの、もう一軒がなかなか終わらず、バカみたいにいつまでも霊柩車が止まっているし、何だかもうスラップスティックなブラックジョークの世界だった。
 時間は違ったが、そのしばらく後、一日三軒の葬式が出た日もあった。

 最近はだんだん冷え込み具合で葬式の出る数の予測がつくようになってきた。

 ちなみに、年寄りで酒好きの人は、伏見あたりの地味な銘柄を、それこそ何十年も愛飲している人が多い。
 これがなかなか厄介である。というのも、酒の仕入れは大手ならプラ箱6本単位、中小は木箱の10本単位となっている。そして家への配達は大体月々2本づつとかを持って行くのだが、在庫の残っているうちに本人が死んでしまうと、店に2本とか4本とか、ハンパな数で残ってしまうのだ。
 店に並べたところで、こんなマイナーな銘柄、全く売れない。大体、配達で食ってるような店だし、そもそもお店に一升瓶の酒を買いに来るお客さんを見かけた記憶がほとんどない。そうして売れる当てもなく埃かぶってる酒を、実は結構もらったりしている。


----飯場----

 土建屋の飯場について書こう。

 一軒は、毎日一合瓶の酒を1ケース届けるところ。もう一軒は2週間に一度くらい、誰が見ても粗悪品とわかる、ラベルも貼っていない醤油を濃口・薄口三升づつ持って行くところ。どちらも安普請が一目で分かる、何だか小学生の図画工作をそのまま大きくしたような、どこかちぐはぐでアンバランスな建物である。行く時間は昼間の一番人のいない時間帯なので極めて静かだ。

 ドスのきいた、目つきの鋭い中年男が社長であるらしい飯場は、建物の片隅の取ってつけたような座敷にその土地の地主が住んでいる奇妙な所で、上に述べたように私は毎日酒を持って行く。食堂の隅の調理場には、何だか貧相な目鼻立ちした男がいつでも暇そうにしていて、受け取りに判を押してくれる。支払いはそのちょっと筋系の社長から月に二度、現金でもらうが財布はいつもパンパンに札束が詰まっている。
 建物の前はコンクリートを一面に流し込んだ駐車場になっていて、かなり年代モノのセドリックやクラウンが、どれくらい洗っていないのか白茶けて止められている。いずれも他府県ナンバーである。流れてきたのだろうか、食堂の男も関東のアクセントが強い。札束パンパン社長も京都のアクセントとは違う。

 四条通を西に向かい、西院を過ぎ、デルタ教習所、外大前を南に下ると、だだっ広い割に車の少ない道や、工場、倉庫、ポンコツ屋、トタン塀で囲われた資材置場・・・・・ときわめて殺風景になってくる。そんな一角に、醤油を運ぶ飯場がある。表は砂利がなく土がむき出しの凸凹で、風の強い日は土埃が舞っている。劣悪なプレハブの建物の内部はいつでも、湿ったコンクリートと、生木と、鰯の匂いがして垢じみている。壁のあちこちに張られた紙にはゴチャゴチャと細かい規則が書かれてあって、経営者がかなりのうるさ型であることが伺える。
 さにあらん。ここの社長はどういう訳か、まだ乳飲み子を抱えたオバハンなのである。どういう理由があって、こういう商売をしてるのだろう。
 広さの割に必要な道具が欠けたようなガランとした感じが食堂にはあって、鰯の匂いはいっそう強い。蛋白源は鰯しか使ってないのかも知れない。
 
 飯場に行って空瓶をカブに積みながら私はいつも何かを、訳も分からず考え込んでしまう。そして、逃げるように帰ってしまう。


----配達先の人々----

 忍者屋敷、と呼んでいる家が高辻通沿いにある。古い染工場を外壁だけ残して内部に一間の部屋をくっつけてアパートに転用したのである。それも鳥の巣箱か鬼太郎の家のように、箱状の物が壁に張り付いていて一部屋ごとに急な木の階段が、向きも高さもばらばらに付けられているのだ。一階にも部屋はあるがその部屋の天井と二階の部屋には接点がない。とにかく、広い建物の壁にでたらめに箱を貼り付けていったらこういうものになるだろう、という構造なのである。
 初めて入った時、私は目を疑ったものだが、その二階の一戸、夫婦者の一家にはビールの大瓶2ケースを毎週のように届けている。運ぶのが大変なのもあるが、少し酒を控えて金貯めて、マトモな所に引っ越せばいいのにと思う。

 ・・・・・・・・・・・・

 新京極の「I」という寿司屋が私の配達先では東の端になる。その次が寺町京極の「U」という土産物屋で、ここには毎週必ず、二級酒二升とトリスのウィスキー一升を持って行く。言ったら悪いがどちらも安酒、さして美味いものではない。
 店が開いてるのをあまり見かけたことはない。たいてい表のシャッターを開けて入る。三畳の間にいる店主の爺さんは見事なアル中で、震える手でビニール袋に小分けした金を数えてキッチリ払うのだが、ものすごく時間がかかる。ある時は私が代わりに数えてやったこともあるくらいだ。
 しかしその三畳の間、見事な高級洋酒の箱が天井まで積み上げられてて、何でわざわざ安酒を取るのか分からない。

 そう顔に書いてあったのだろう、ある日爺さんが話してくれた。
  ------兄ちゃん、何でわしがこんな安い酒飲んでるか分かるか?
  ------いえ。何でですか?
  ------どっちの酒もホンマにまずいわ。でもなエエ酒はな、アカンねん。
  ------??何がアカンのですか?
  ------酒の味をな、味おうてしまうねんな。ほしたら酔えへんがな。美味いな〜、て思たら気ぃがそっちの方行ってもてやな、ス〜ッと酔えへんのや。そやからエエ酒はアカンねん。ま、これはこれで飲んで、ほてから兄ちゃんトコから取った酒で酔う、っちゅーわけや。

 店に戻って爺さんにその話をすると、いつものようにあまり感情を込めずに次のようなことを言われた。

  ------Uの大将でっしゃろ?あこの店は京極の土産モン屋でも旧い旧い老舗やのに、あの人は絶対組合の会長にならはらしませんねん。責任なしに盆暮れの付け届けもらえて、宴会でも好きなだけ酔えるからゆうて、ずーっと副会長やったはるんですわ。

 ・・・・・・・・・・・・

 町には、在日の人が割と多い。また、あちらの人の苗字には「金」が多いので、大抵はその文字を入れた日本姓を名乗っている。だから配達が「金山」「金本」「金村」「金田」と続くと混乱する。最初はよく配達間違いをしたものだが、そのうち商品と届け先の組み合わせで覚えてしまった。
 しかしそれでも覚えられない家というのがある。日本姓が複数あるのだ。で、あまり注文がないので記憶に残りにくい上、注文の電話をしてくる人によって名乗る苗字が違う。なおかつ、玄関の表札には苗字が一つしか出てない。ここが完全に理解できたのは最近のことである。

 ・・・・・・・・・・・・

  ------お兄ちゃん、学生さん?もう二十歳なってはんのん?
  ------はい、まぁこないだなりましたけど・・・・・・。

 ほら来た、と思った。あまり配達に行く家ではない。1〜2ヶ月に一回くらい、日本酒とビールを届けてる家だが、口調からするに多分、創価学会だろう。オバハンは続ける。

  ------今度の選挙、公明党に入れてくれへん?
  ------いや、遠慮させてもらいますわ。
  ------何でやのん?
  ------僕、正直ゆうて嫌いですねん。

 オバハンは怒り出した。恐らくこれまでのアルバイトにも同じようなことを言ってきて、まともに拒否されたのは初めてだったのだろう。それから、何だか良く分からない押し問答があって、最後にオバハンはこう言い放ちやがった。

  ------お兄ちゃん、そんなことゆうてたらバチ当たるよ!!

 私はついに堪忍袋の緒が切れた。

  ------あのねぇ、公明党に入れるとか入れんとか、そんなしょーもないことでいちいちバチ当てるホトケさんなんて、ホンマのホトケさんちゃいまっせ。オバチャンの信じてるホトケさんて、狐か狸が化けたモンちゃいまっか?

 店の爺さんには申し訳ないが、その後その家からの注文はない。


----暮れが近づく----

 暮れが迫ってきて、歳暮の配達に忙殺されている。油小路、新町、西洞院、烏丸、室町・・・・・・と行きなれない所へ酒を積んで走っていく。大きな箱をカブにくくりつけ、それにキチンと包装した一升瓶を積んでいくのが、普段とは勝手が異なる。
 配達先は全部会社。一方通行の複雑に交わった通りを上がったり下がったりで、一日の大半は過ぎてしまう。町はビルが並んでどこも灰色で、人間らしさが感じられない。酒屋のある壬生近辺の方がいい。
 さて、その建物の一つに私は大きなガラスの自動扉を開けて入る。受付のオネーチャンが一人、退屈そうに座っているのが普通であって、彼女に酒を渡し、ハンコをもらって、次のやはりよく似たビルに向かうのだ。通りを行く車もみんな白いバン。商用車というヤツである。何もない、という気がする。

 空になったカゴで店に戻れば、紙箱に詰められ熨斗つけた日本酒の山。再び、油小路、新町、西洞院・・・・・・。何だかこれこそが経済原理なのかな、と思えてくる。無意味なものが痛々しいほど取り組まれ積もりに積ったということ。

 店は練炭類も取り扱っており、秋口からボチボチと注文が入る。今時、練炭や豆炭使っている人がいるのかと感心するが、案外多い。倉庫が狭いのであまり在庫は持たず、御前通を上がったところに練炭工場があるので、注文が入るとそこに取りに行き、そのまま配達先に届ける。大したこともせず、小売が介在するだけで何で利ざやが上げれるのか良く分からない。
 練炭工場は、ほとんど屋根だけの吹き抜けのがらんどうで、炭を焼く窯が何基か並んでいる。最近は流行らないのだろう、働いてるのは年寄りばかりである。扱うものが炭だけに周囲は真っ黒。練炭は7個が六角形に並べられたのが2段、紙で梱包されて一ケースである。非常に重い。
 それをカブの荷台に3ケース積み上げると、もうフレームはぐにゃぐにゃで、フロントを抱かえ込むように押さえつけないとマトモに走らない。先日は西大路三条の嵐電の踏切でウィリーして死にそうになった。

 それにしてもカブの運転が上手になったものだ。広い通りから路地に入る時に、一気に一速に落として後輪をロックさせテールスライドにカウンターで突っ込む、発進でのウィリー、バンク角がほとんどないのにハングオン・・・・・・
 随分痛い思いもした。壬生寺通を四条に出たところでステップが接地してして転倒したときは、血だらけになって店に戻って爺さん婆さんは腰を抜かしていた。ウィリーで盆栽をなぎ倒した、家の窓に突っ込む・・・・・・あまりにも乱暴に扱ったせいかどうか、こないだはクランクケースカバーの一部が欠けて、オイルが噴き出してきた。
 穴に割箸を叩き込んで応急処置をしたが、特に問題もなく、その後はそのまま乗っている。カブの耐久性は世界一だ。


----敗残の男----

 その男というのは、六十をいくつか過ぎているだろう。中肉中背、古びた雪駄を履き、伸びきった毛糸のセーターと帽子を身に着けて、12月の半ばくらいまでは毛むくじゃらで顔の見えない犬を抱いていた。その犬ももう大分年寄りで、歯がほとんど抜けてしまっているは、毛並みの色艶がうせて小汚くなってるはで、いつもその男の腕の中でブルブル震えていた。
 彼は犬に話し掛ける。この時だけ多少尊大なところのある彼の口調は優しく諭すようなものになる。

 初めて私が顔を見たのは10月の半ばくらいだったと思う。配達から戻ると、立ち飲みでは珍しくコップの量り売りではなく、ワンカップを飲んでいた。土気色とはこういうのを言うのだろう、ひどい顔色で殴られたようにむくんでいる。この辺の人にしては珍しく、いわゆるきれいな標準語で話すのがその外見と不釣合いで、何とも奇妙な気がした。
 そのうち毎日来るようになり、少しづつ言葉を交わすようになった。飲むのはいつでもワンカップだった。思えば二級酒ではなく、少し高いそれを飲むことが、最後の彼の矜持だったのかも知れない。

  ------アナタは学生さんかい?
  ------はぁ、そうです。
  ------学部はどこかね?
  ------文学部ですけど・・・・・・

 その男の目に少し生気が宿るのが分かった。どうやら話題のツボに入ってしまったようだ。

  ------いやぁ、実を言うとボクも若い頃は文学青年でね、小説家を志していたのだけれども、喰えなくてね。仕方ないから終戦後なんか、カストリ雑誌、知ってるかい?・・・・・・おお、そうだそうだ、さすがは文学部、よく知ってるね。あれで何とか喰ってたことがあるんだよ。

 思わず苦笑した。自分で「文学青年だった」などと名乗るのは、私の感覚で言えば自嘲に他ならないが、にこりともせず言ったところから判断すると、彼にとっては幾許かの自慢話のつもりだったのかもしれない。
 「カストリ雑誌とは言うまでもなく終戦直後に粗製濫造されたエログロナンセンスを売りにした雑誌のことである。三号も出せば廃刊になることから、三合でツブれる密造酒(カストリ)に引っ掛けられた・・・・・・なんて、何でホント、私は知っているのだろう。自分にも何だかうんざりした。

 あるときはこうも言われた。

 ------キミは私小説は好きかね?何・・・・・・じゃロマンを描きたいわけか。・・・・・・キミ、そんな私小説をバカにしたような言い方をしちゃぁいけない。読んでみなくちゃ。たとえばあの、上林暁の「聖ヨハネ病院にて」、あれは死んでいく自分の妻を看取る”私”を実に淡々と述べているんだけれど、そこに、その、何と言うか心を打つものがあるんだねぇ。ま、キミももっと読んで頑張りなさい。

 偉そうなことを並べてはいるが、彼は立派なアル中である。最初は日に一度来てゆっくり酒を飲むだけだったのが、二度になり三度になり、年を越えた今は、少なくとも私が見るだけで日に8回は来る。そして今ではもう会話を交わすこともなく、座った目付きで店に入ってくると、小銭を投げるようにカウンターに置き、口金をきるのももどかしくワンカップを一息で空けて出て行くのである。
 立命館の法科を出たとかという娘は既に嫁いで、彼は妻と二人きりで、山陰線のガード下のしもた家に暮らしている。それがどんな生活であるのかおよそ私には見当も付かないが、暗くなった時分、凄惨な目付きでよろよろと歩くその姿を見る度に「敗残」ということが、ただもうひたすら痛々しいだけの意味しか持たないことを思い知らされる。

 何故、彼が秋口まで現れなかったのか。理由は簡単である。アル中のため精神病院に入院させられていたのだ。実は何年もその生活の繰り返しらしい。店の爺さんは当たり前のような顔で、彼はまた病院に逆戻りだろうが、それよりもう死期の方が近いかもしれない、という意味のことを言った。酒を売って病の片棒を担ぎながらも、京の商人は慇懃にして冷淡だ。

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 ・・・・・・記録はここまでで終わっている。したり顔で生意気にあれこれ書いているけれど、おれは最後まで無責任な傍観者に過ぎなかった。勤務態度もさほど良くなく、しょっちゅうではなかったけれど二日酔いで遅刻したり休むこともあったりした。さすがに休む時は気が咎めて、代打のツレを探して行ってもらったりしてたとはいえ、随分申し訳ないことをしたものだ。

 あの酒屋は残っているのだろうか、と、今でもふと思うときがある。わずか半年の経験に過ぎなかったが、おれの記憶の中で壬生寺界隈は忘れがたくも、何ともさみしいさみしい町である。
 K西言うところの「何とも気が滅入る」、それはある意味、正鵠を射た表現だった。

----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
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