「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
僕たちの冒険

  
当時のおれたちのバイブル(笑)「冒険手帳」と、その文庫版、それに続刊。
今や買うのは当時を懐かしむオッサンだけらしい。

 浦沢直樹は好きなマンガ家だったが、何となく「MONSTER」の途中くらいからパタッと読まなくなってしまった・・・・・・な〜んておれの事情はどぉでもいいことだな。
 彼はその後も完成された絵と良く練られたストーリーでコンスタントにヒット作を飛ばし続け、今や日本を代表する漫画家となっている。そしてなんと「20世紀少年」は日本映画としては空前の三部作として制作され、その第一部が先日公開の運びとなったという。まことに泥縄だが、今さらながら読んでみようか、って気になっている。

 さて、その主人公たちとおれも概ね同世代なのだけど、ガキの頃のおれも含めたガキ共が別に未来や空想科学的なことに夢膨らませることはなかった。その代り、一種のワイルドな冒険志向の夢を膨らませて、あちこちに基地を拵えることに勤しんでたのである・・・・・・あ、墓地ぢゃないよ。PCやとほとんど字の区別がつかんがな(笑)。キ・チ、やで。
 基地、っちゅうくらいだから何かの行動のベースキャンプであるのが本来的なあり方のハズだが、そんな高等な使い方をされることはサラサラなく、基地を作ってそこでウダウダと時間を過ごすことが目的なのだった。今思えば当時は「基地」と一言で呼んでたけど、正しくは「秘密の場所」だな。

 あまり大人数ではそもそも秘密にならないから、これは特に仲の良い数名だけでやる遊びだった。ほとんどのヤツが何らかの形で基地を作っていたと思う。乗っ取ったり乗っ取られたりなんてこともたまには発生していたが、同じ小学校内では概ねみんな友好的だったし、それに他人に見つけられるような基地はいわば「基地として失格」であって恥ずかしいものだったから、それでトラブルになったことは一度もなかった。

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 最初の基地は、学校の帰り道にある造園業者の資材置き場となってる広大な空き地の隅っこ、僅かに造成を免れた丘の上の御堂だった。その造園業者が終戦直後に掘り当てて手厚く祀ったら商売が上手く行ったのだとかなんとか・・・・・・ってな由来は後年に至って御堂が建て替えられ、立て看板が出来て初めて知ったのだが、おれたちがそこを「1号基地」などと鹿爪らしく命名した頃は、単に団地を見下ろす雑木林のピークの小さな空き地に過ぎなかった。
 命名してはみたものの、おれたちは何一つここに自分たちの力で造作を行っていない。施設がないまま場所に命名したようなものでイージー過ぎる。それと、いかにも人目につき過ぎる。道路から30mほど上がるだけなのだから当然だわな(笑)。そんなんだからたまに怖い中学生のオニーサンもエロ本やタバコ持ってやってきたりする。これぢゃ秘密にも何にもなりゃしない。
 ・・・・・・間もなく基地は放棄された。

 2番目の基地は同じ資材置き場内、積み上げられた庭石用の巨岩の隙間を潜って行った底だった。川からの石の採取が今ほど規制されてなかったから、大人の背丈ほどもあるような岩がいくらでも安く手に入った時代である。その隙間を修験道の胎内巡りのように進むと、子どもが立てるくらいの高さで2畳ほどの空間があったのだ。決して明るくはなかったものの積み上げられた岩には隙間が多いので、光が適度に射し込んでなかなかマッタリできる空間ではあった。
 ここはたいそう楽しかったが、無鉄砲なようで小心者のおれとしてはかなり不安でもあった。「もし地震とかで岩が崩れたらおれの力では出れないだろうなぁ〜」などと、まるで岩の重さを分かってないトンチンカンな悩み方をしてた。ア〜もス〜もなくツブされる、っちゅうねん(笑)。
 しかしここも儚い運命だった。岩がみんな売れてしまったのである(笑)。そしてそこに子供が隙間に入れるほどに立派な岩が置かれることは、以後決してなかった。

 それからしばらくは池から流れ出た川が大きな暗渠になった中だとか、基本に立ち返って児童公園の植え込みの中だとか、あちこちを転々としたのだがどうも今一つ決め手に欠け、安住の地は見つからなかった。

 最後の基地は団地のはずれの山の中に作った。今から考えるとおそらくは入会地の伝統が地元の人に残ってたのだと思うが、山菜取りとかで人が入るのだろう、山の中には思ったよりも縦横に小径があって、その一つの途中から入った蔦や木が絡まったところをバキバキ拡げて作ったのである。かなり本格的な代物で、木を集めてちょっとした雨なら凌げる程度の屋根も作ったし、ゴミ捨て場から茣蓙やベンチを拾ってきてくつろげるようにもした。また、寒い季節に備えて焚火用に一斗缶も据えた。
 火・・・・・・それは基地にとって極めて重要なファクターだったと言えるだろう。親たちが子供に禁止する基本は火遊びだったからだ。しかし、だからこそ秘密の場所で秘密のことせんで何が基地なもんか、ってな具合でおれたちは初めて獲得した基地らしい基地で火を起こすことに執着していたのである。
 この基地も最後は呆気なかった。分かりやすい前フリで想像がつく通り、焼失したのである。思ったよりも燃え上がった炎におれたちは怯みながらも、勇敢かつ必死の消火活動を行った。要はみんなでオシッコして何とか消したワケだ(笑)。まだ空気がさほど乾燥してなかったのが幸いしたのだろう。良く山火事にならんかったもんだと思う。

 おれたちはそこを最後に基地づくりから降りた。火に惧れをなしたのもそりゃ〜無くはなかったが、そんなんよりそろそろそんな「ゴッコ」がちょっと恥ずかしい年齢になってきてたのである。そんなんで興味の対象はカブトムシ捕まえに行ったり、ザリ釣りに行ったり、野球したりに移って行った。あるいは学年が上がって空き地やグランドがみんなで抑えやすくなってきたことや、仲間たちのほぼ全員が自転車を持ったことで行動半径が広がったこと、また、クラスに若干名いた地元に先祖代々暮らす子供たちとの友達づきあいが生れ、自然に対する本当の知識に触れたこと、なんかも影響してるかも知れない。

 結局、各地にせっせと基地作ってたのは正確には判然としないが、だいたい小学校3年から4年の初秋くらいまでの期間だったような気がする。あまり長くはない。でも大人の1年と違って、子供のそれはとても長い。

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 振り返って鑑みると、他にもいろんな要素は入り混じってたが、あれは都会育ちの子供たちの中での一種の「アウトドアブーム」に他ならなかった。4WD/RVブームの終焉と共にやや一段落した感があるとはいえ、昨今なお隆盛を極めるアウトドアブームは、コストや道具の違いこそあれ、そのメンタリティに於いてあの当時の基地ごっこと何ら変わりはない。「田舎暮らしの本」や「男の隠れ家」なんてーのもバックボーンは大差ない。言い方は悪いが、まぁ「町のモンの道楽」である。

 それが証拠におれのヨメは子供の頃、キャンプにも林間学校にも行ったことがない。何故なら生まれ育った場所が山の中だったから、学校でも家庭でも行く必要がなかったのだ(だから臨海学校はあったらしい)。男の子で基地作ってたなんちゅうのもついぞ聞いたことがないという。山は生活や仕事の場であったし、迂闊に外れた所に入り込むと戻れなくなるほど険しい場所や、熊や猪の出没があることをみんな知ってたのだ。ついでに言うとスキー学校もなかったそうな。スキーなんて単なる冬の体育の授業科目に過ぎなかった。

 それでも、基地作りは経験としては悪くなかったと思う。もちろん危険な行為ではある。幸いおれたちの周囲ではいなかったけれど、古井戸に落ちたり(肥溜めに落ちたのはいたな・・・・・・笑)、放置されてた大きな冷蔵庫に入って出られなくなったり(今と違って昔は爪のようなもので扉にロックがかかったのだ)、あるいは斜面に穴掘っててそれが崩れて生き埋めになったり、なんて痛ましい事故は年に何回か報じられていた。
 しかし、秘密を持つこと・危険を冒すことは快楽の基本の一つである。穿った言い方かもしれないが、おれたちは基地作りによって人には幾許かの裏の顔が必要であることを学んでいたのかも知れない。

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 帰省した折、1号・2号基地があった所に行ってみた。いつの間にか空き地も山もすべて整地され、建売の似たような形の一戸建てがひしめいて昔日の面影はもうまったく残っていない。その街角に、件の御堂だけが取り残されたように建っていた。 

2008.09.07

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