太陽の塔・・・・・・EXPO'70の記憶 |

徳利のようにも見えますね(笑)。
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http://banpaku.kouen.tk/より
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こ〜んにっちはぁ〜♪
こ〜んにっちはぁ〜♪
せかぁ〜いのぉ〜♪
くにっからぁ〜♪
言わずと知れた三波春夫が歌う「世界の国からこんにちは」だ。この、少々癇に障るほどのあくまで晴れやかで明朗な歌声のテーマソングに乗って、空前の国家的お祭りが大阪の千里丘陵を切り開いた一帯で始まったのが1970年(昭和45年)のことである。万国博覧会・・・・・・通称「万博」だ。もう40年近く前の話だ。
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世事に対してとことん疎い我が家でさえ、おれが物心ついた時には既に「ばんぱく」のことがしばしば話題に上っていたくらいだから、開催の何年も前から大きなニュースになっていたものと思われる。今から思えばおそらくは東京タワーの建設や東京オリンピックの開催、東海道新幹線の開通なんかの延長線上で語られる、日本の敗戦からの脱却、奇跡の経済復興・成長、先進国への仲間入りといったものを世界に示すための象徴的なイベントだったのだろう。
しかし、おれにはその「ばんぱく」とやらゆうモンにあまりイメージが湧かなかった。いろんな変わった形の建物が出来て、珍しいモノが見れて、世界中から人がやってきて、遊園地があって・・・・・・????
それはおれがまだ年端の行かぬ幼児だったから、ではない。おれはガキの頃から雑学にだけは長けてたのである。理由は単純、近所のお祭りはガラが悪くて子供騙しでボッタクリ、遊園地なんてもんは金の無駄だのなんだのと小理屈並べて一切連れて行こうとしない、上品を気取ってはいるがただもう吝嗇で奇妙奇天烈な父親のいる家に育てられたおれには、「平板な借り物の知識としての祭り」はイメージできても、「匂い立つリアルな体験としての祭り」がイメージできなかったのだ。我ながらどっから見てもこれってカタワやな、とつくづく思う。
個人的事情はさておき、そうこうするうちに万博は始まった。
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初めて行ったのは親戚のおっちゃん・おばちゃん(・・・・・・って、新婚早々だったから失礼か)に連れてってもらったのだったと思う。どんな風にして行ったかは忘れてしまったが、銀色の電車に乗ったので、たぶん地下鉄御堂筋線〜北大阪急行のルートで行ったのだろう。電車の窓の両側に、話に聞いてた摩訶不思議な建物の数々や、複雑な曲線を描くジェットコースターが見えたと思ったら、もう会場入り口だった。まだ芝生が根付いてなかったのかいかにも造成地らしい土もあちこちで見え、おれはちょっと殺風景に思った。
そして、少し離れた所に見えたのだった。万博のシンボルである太陽の塔が、ピカピカ光る巨大な平べったい屋根みたいなところを突き破ってニュ〜ッと聳え立っているのが。
何とも妙な形だなぁ〜、ってーのが率直な第一印象である。実はその印象は未だに変わってない。どうしてもあれのセンスがおれには良いものとは思えない。鶏と向日葵と埴輪をいっしょくたにしたような、抽象のような具象のような、有機的なような無機的なような、未来的なような何か古いアステカの石像のような・・・・・・たしかに後年「芸術は爆発だ!」でメディアの寵児となる岡本太郎作だけあってゴッタ煮的で迫力のあることは大いに認めるところだけど、何てーかいろんな要素を換骨奪胎して大胆にまとめ上げた手法が雄渾なだけで、真のオリジナリティには乏しい気がする。
しかし、あの会場内でとにかく一際デカく目立ってたのだけは確かだった。
実はそこから後の記憶はほとんどない。覚えているのは、とにかく現代のテーマパークなんぞ足許にも及ばないほどの凄まじい人出で、パビリオンに入ることはほとんど叶わず、蒸し暑い中ひたすら人波の中を歩き回ったことと、昼ご飯に生まれて初めてバイキング方式の食事をしたことだけだ。
当時のおれは偏食が激しかったから、嫌いなものを最初から外してしまえるこのシステムはとても魅力的に思えた・・・・・・のだが、プレートやボウルに山盛りになってる料理が生まれて初めて目にするものばかりで、味付けはおろかどれが食べれる物で食べれないものかもサッパリ分からず、結局、大して何も食べれなかった。
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ともあれ具体的に何が面白いのかは今一歩良く分からなかったものの、華やかで賑わった雰囲気におれは圧倒され魅了された。比較的早い時期に万博に行けたことがちょっと得意でもあったのだが、悲しいことにその時すでに周囲はもっと先行ってた。小学校の同級生たちの話題はとっくに、「行ったか?/行ってないか?」から「何回行ったか?」の段階に進んでいたのだった。その内、クラスは違ったけど同じ学年で「迷子何万人目」でTVニュースに出たヤツも現れた。フツーに考えればそれはとても恥ずかしいことのはずなのに、そいつはちょっとした校内の人気者にさえなったのである。まことに異常な盛り上がり方だった。
一度しか行ってないおれが、何だかとてもみすぼったらしい存在であることは明らかだった。そりゃぁもちろん、中には暗い顔で万博の話題の輪に全く加わることすらできない貧しい子供だっていたのも事実だろうけど、おれは1回しか行ってないことの方がひどく中途半端な気がした。たぶん、中産階級の一番隅っこでイジイジしてるような感じが本能的にしたのだろう。
そんな、お金持ちの家の子のように毎週連れてってもらわずともいい。だからだから、せめてもう一回くらいは行きたいと心の底から願った。しかし、前述の通り父親はアテにできない。おれは母親に頼んで頼んで頼んで、ようやっとの思いで夏休みのある日、再び訪問がかなったのだった。
夏休み期間となったことでさらに人出は物凄いことになってたような気がする。パビリオンも結局、前回同様不人気で地味な所にいくつか入れただけで、月の石の展示で圧倒的な人気だったアメリカ館など、近づくことさえ不可能なほどの行列だった。昼ご飯に何食べたかは忘れた。店内で食事のできる所にしたって、昼時のゲレンデの食堂なんかよりも殺人的に混雑してたはずだから、屋台か何かで済ましたのかも知れない。そういえば、前回同様エキスポランドには入らなかった。値段が高かったのと、行列がすごかったためだろうと思う。
そしてやはり、太陽の塔は聳えていた。裏側にも顔があって、それが前から見るよりは随分地味なことも知った。
こうしておれは辛くも2回行くことができたのだが、それはクラスでそれは少ない方、かつ少数派で、4〜5回行ったってーのが一番平均的だったように思う。開催期間がいつまでだったのかはもう忘れた。秋のどこかで終わったような気がする。1970年の空前の熱狂は呆気なく過ぎ去ってしまった。その話題が人口の膾炙となったのも、後から思えばホンのひと時だった。
長じてから、地下鉄で千里中央に向かってもどうしたって太陽の塔もエキスポランドも見えず、電車の窓からそれらを見たのはおれの記憶違いかとずっと思っていた。そしたら最近になって、会期期間中限定で千里中央から万博会場までモノレールが走っていたってコトを知った。やはり記憶は正しかったのだ。跡地はそのまま中国高速道の用地として転用されたらしい。何のことはない、大阪在住時代、しょっちゅう旅に向かう際の出発点としていた中国吹田IC付近こそが、まさにおれがワクワクしながら電車を降り立ったその場所なのだった。
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その後もいろんな国際博覧会が催された。
ザッと思いだすだけでも「おきなわ海洋博」だとか「つくば博」、あるいは「花博」に「陶芸博」、比較的最近では「愛・地球博」なんてーのが国、あるいは自治体肝煎りで行われた。でも、70年万博ほどの大きな盛り上がりを見せたものはどれ一つとしてなかった。それは国の威信をかけた国家事業として、つまりは損得勘定抜きの博覧会が70年万博の後に一つもなかったことに他ならない。陶芸博なんぞ、インフラの脆弱さを露呈するかのように信楽高原鉄道正面衝突事故なんて大事件が起きてしまい、会期半ばで打ち切られるっちゅう悲惨な最期である。
それでも博覧会ブームは止まず、劣化コピーのようにどんどん陳腐化・矮小化した、もはや「万国」でも「国際」でもない単なる安っぽいハリボテの祭りに過ぎない、どぉでもいいローカルなものまでが「博覧会」と銘打たれて日本各地で粗製乱造されるに至って、誰ももう何も博覧会に期待しなくなってしまった。つまり、博覧会というイベント形態そのものが消費し尽くされて終焉を迎えたと言ってもいい。その点においてもけだし20世紀的なイヴェントではあった。
岡本太郎も三波春夫も鬼籍に入って久しい。世界情勢もずいぶん変わった。資本主義も共産主義も完全に化けの皮が剥がれ、黄昏の時を迎えた。人はもう未来に何も期待していないように見える。大天蓋も多数のパビリオンも幻であったかのように消え失せ、今は一面の草地の公園となった中、しかし太陽の塔だけは悄然と立ち尽くす。
・・・・・・見つめるはずだった「輝かしい未来」は一向に到来しないままに。 |
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2008.08.09 |
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