「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
わたしの自転車遍歴


偶然見つけたユーラシアのカタログ

http://noda20.hp.infoseek.co.jp/index.htmlより

 ・・・・・・ナンテね♪(笑)

 鹿爪らしく書いてはみたものの、実を言うと現在のおれには自転車がない。家にあるのはヨメと子供のばかりである。

 会社が自転車で通えるくらいの距離にあるなら、是非とも気の利いたロードモデルを入手して、HRギーガーの「エイリアン」みたいなヘルメットかぶって颯爽と通勤してみたいものだなぁ〜、と常々思っているのだが、いかんせん30km以上も家から職場は離れているので現実的ではない。申請しても「危ないからやめとけ」って止められるのがオチだろう。ダイエットになっていいと思うが、確かに忘年会とかあると、帰りが飲酒運転になっちゃうしなぁ・・・・・・。

 そんな状態のおれがチャリについて語るのはいささかおこがましいが、まぁオッサンの昔話ってコトでお許しいただきたい。

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 今は想像もつかないだろうが、おれがガキの頃、自転車ってーのはとても高価なものだった。クリスマスや誕生日のプレゼントで最も高額なものが自転車だった、と言っても過言ではない。

 そんな中で持ってると尊敬と羨望の眼差しで見られたのが「フラッシャーつき・セミドロップ・5段変速」の自転車だった。他にも何だか良く分からないモノが色々くっついてた気がする。
 何のこっちゃ分からんと言う人のために念のため説明すると、「フラッシャー」とは方向指示器のことで、デコトラみたいにハデにビャビャ〜ッと光が走ったりする。そのためにダイナモの発電力では不足で単一電池が10本くらい必要だったけど・・・・・・(笑)。「セミドロップ」、っちゅうのはハンドルですな。今でもあるんやろうか??ドロップハンドルは危険ってコトで、学校で禁止されてるところが多いため、メーカーが苦肉の策で編み出したものだったのかもしれないが、上から見るとマクドナルドのロゴみたいなカッコで、ほんのちょっとだけ低くなったハンドルである。冷静に考えると、いつでも一番低いところを握るのでドロップよりよっぽど危険だった気がする。「5段変速」は今さら説明する必要もないだろうが、変速レバーがクルマのオートマレバーのように大層なデザインになっているのが特徴だった。
 結論から言うと「子供だまし」である。すぐ飽きてしまう。飽きるのと前後して、クソ重たいフラッシャーは壊れる(笑)。かくして中学生くらいになると、そういうややこしいモノを取っ払ってトリガラ状態になったサビサビの自転車が、中学の駐輪場に並んでいたりするのだった。

 小学校高学年あたりから中学初めくらいが分かれ目なのだろうが、そこでチャリが「単なる足」か「何らかの趣味」かになってくる。後者になると、子供向けの実用書で「サイクリング入門」なんて読んだりする。「最初は1日25〜30kmくらいから始めましょう」なんて詰まらないことを大真面目に書いてあった。
 しかしこの世代の本格的な自転車の入口となる教科書は、何といっても、今はなき「少年キング」に連載された荘司としお著「サイクル野郎」であった。これ読んで自転車にハマった子供は山のようにいた。おれもそのクチだ(笑)。

 しかし、とにかく自転車は高額な代物でおいそれと買えるものではない。それにそれくらいの年齢は成長期なので、うかつに買ってそれから急に背が伸びたりしては目も当てられない。どだいそもそもドロップハンドルは禁止されてる。

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 もうおれは中学生くらいになっていたが、そんな風に自転車は欲しいがナカナカ買えねぇなぁ〜、って悶々としながら過ごしてた頃、二人の転入生が相次いでやってきた。ひとりはTというヤツで名古屋から、もう一人はKといって浜松から。コイツ等が持ってたのですよ!当時としてはゼータクな、そして禁止されてるドロップハンドルの自転車を!

 Tは、ナショナル製の10段変速で、最初からパニヤバッグという左右振り分けのカバンを取り付けるためのキャリアや、砲弾型のライトとテールランプ、空気入れに水筒までついた茶色いのを持ってた。これは確か当時の定価が51,000円だったと思うが、サイクリング入門用としては最上級品だった。ものすごく重かったけどね。
 一方、Kは売り出されたばかりのブリジストン「ロードマン」を持ってた。これはコンポーネントの考え方を量販品として取り入れた初めてのモデルで、パーツを組み合わせるとロードっぽくもランドナーっぽくもなるもので、高校生とかに大ヒット中だったのだ。確か基本モデルが3万ちょっと、とさほど安くはなかったが、それでも従来に比べて格段に安かった。
 冷静に考えると27インチでランドナーってーのも妙だが、ともあれ「フラッシャー云々」よりは千倍本格的だった。ミヤタ「カリフォルニア」丸石「エンペラー」なんてシリーズが、その成功にあやかって続々と売り出されていた記憶がある。ん?フェザーコンポはどこやったっけ???

 Tの家は遠かったが、Kの家はすぐ近所だったので、毎日学校帰りにおれはその緑色に輝くロードマンを見ながら、いつかはクラウン、って気分になっていた。いやマジで(笑)。
 後から思えば実際のロードマンはハイテン鋼って、ちょっと安物のフレーム材質で車体は重かったし、パーツもさほどいい物を使ってる訳でもなかったが、中学生だったおれにとっては素晴らしく後光がさして見えるようだった。

 そのうちこの本格スポーツ自転車ブームはより高級路線にシフトする。恐らくロードマンでチャリに興味を持った層をさらに本格的な(つまりは高単価な)世界にいざなう(取り込む)べく、これまたブリジストンからリリースされたシリーズは「ユーラシア」という名前がつけられていた。もっと高い「ダイヤモンド」なんてシリーズが従来からもあったけど、やや高すぎるので、その少し下の価格帯で買い得感を強調した戦略的なシリーズである。
 用途別に用意されたのは、チューブラータイヤを履いてサイドプルブレーキ・27インチの「ロード」、今で言うクリンチャー(当時は700Cと呼んでいた)、センタプルブレーキ・27インチの「スポルティフ」、26インチ・カンティブレーキの「ランドナー」の3種類(※)。フレームは当時最高級だったクロモリ鋼(シングルバテッドだし、メインの部分だけだったけど・・・・・・)。当然オプション類もたくさん!
 これだけの内容でお値段何と!59,800円〜79,800円。恐ろしく高いコストパフォーマンス!売れないわけがない。おれは泣くようにして頼んで頼んで頼んで頼んで頼んで頼んで・・・・・∞、頼みまくって、何かの成績と引き換えにコイツを買ってもらった。確か中3の半ばくらいだったと思う。
 しかし、若干時すでに遅し!!すでにみんな自転車よりもバイクや楽器、女の子に興味が移り始めてたのだ・・・・・・実はおれ自身も含めて。

 自転車熱は何もおれだけではない。時期は前後すると思うが、その後立派にヤンキーの道を歩んだO田にしたって、必死で新聞配達かなんかして、ナショナルのさらに上級モデル、恐らくは当時完成車では最も高く(18万円だったかな?)、バッグから何からフル装備だったエビ茶のを買って周囲のド肝を抜いた。もっと非行少年の素質があったSは、どっかからパクってきたフレームを何かグロな紫茶色に塗って、これまた出所不明のパーツを合わせてパッと見はスゴいのを組み上げたりした。

 良い子も不良も、みんなチャリに夢中だったのだ。

 当時は日本の自転車メーカーに力があった頃で、各社から色々なモデルが売り出されてた。おれは旅することに妙に魅せられてたので、ランドナーとかツアラーなんてモデルに夢中になってたけど、今でも欲しいな、と思うものがいくつかある。
 一つは「川村サイクル」って神戸のメーカーから出てた「NISHIKI(ニシキ)」ってーので、シートフレームとフロントフォークのキャスター角に差がつけてあったり、マニア心をくすぐられるモノだった。
 もう一つは、「日米富士」から出ていた「オリンピック」ってシリーズのランドナーモデルで、もっとマニアックな感じが強かった。これは市販品で何もついてない状態で15万くらいしたから、O田の買ったナショナルより高いものだった。細かい仕様は忘れたが、とにかく色がすごかったのだけは鮮明に覚えている。紫のフレームにウォルバーかどっかのレンガ色の650Bというふっといタイヤ、白のグリップテープという、かなり一歩間違えたカラーコーディネートに、アルミの打ち出し鍋のようなパターンの亀甲泥ヨケっちゅうモノがついてて、ものすごい押し出しの強さを誇っていた。
 まだオーダー自転車なんて想像もつかないし、何より完成車メーカーはたくさんあった。前述のミヤタ・丸石、あとはカタクラやツバメ、ツノダ、山口、オカモト(コンドームのオカモトです)・・・・・・思えばいい時代だった。

 ともあれおれのチャリ熱はユーラシアで一段落する。

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 そして大学に入った年に、チャリ熱は狂い咲きのように再燃する。この話は以前書いたので、細かいことは割愛するけれど、それを組み上げるに到った経緯だけ少し書いて置こう。

 高校の頃、すでにシンキくさい音楽・凶暴な音楽に目覚め始める一方で、おれは学校主催で月一開かれる「歩こう会」なんてイヴェントにマメに参加していた。来るのは品行方正なヤツがごく少数。何でそんなのに皆勤賞並みに加わっていたのだろうと思うが、恐らくは「どこかに行きたい」っちゅーか「ここに居たくない」って気持に、大変ローコストに応えてくれるのが良かったのだ。
 この会を通じておれは、近畿地方の低山はかなりあちこち行った。

 さて、物好きにもこの会に、O本というOBの大学生が来ることがあった。もてないクンだったんかも知れない(笑)。なるほど天然パーマで小柄な怪しい風貌のヤツだったが、コイツが無類の自転車好きだった。おれは偶然そのニーチャンと同じ大学・学部に進んだ縁で、懇意にしてる自転車屋を紹介されたのである。京都植物園の近くにあったその店内には、ほれぼれするような見事なフレームやパーツが溢れていた。
 おれはそこで、伝説のフレームビルダーだった職人が亡くなる直前に作ったという、文字通り最後のフレーム10本のうちの一本を買った。540mmのシルバーのそれは10万円くらいしたが、なんと「ラグレス」といって補強部品なしに組まれたものであるにもかかわらず、ほとんど溶接のロウ付けの跡が見えない、それはそれは素晴らしい逸品だった。
 それにコツコツとカンパニョーロやソービッツ、チネリ、TAといった当時の超高級パーツを自分でくっつけてこしらえたのが、ユーラシアの次の愛車である。確かバッグも、京都の誇るカバンの名店「一澤帆布」謹製。何のかんので25万くらいかかった。

 しかし、いいものほど手間はかかる。腕時計と同じだ。それにこの名づけて「金満号」で放浪した結果得られた2つの結論は、ちょっとナサケなくも、おれの自転車へのスタンスを否定するものだった。
 その1つは「もっと遠くに行くには、自転車では役不足」、もう1つは「ツアラーにそこまでいい自転車はいらない」というものだ。

 ・・・・・・結局おれはユーラシアも金満号も、下宿の近所の洋菓子屋の自転車好きのパティシェにおよそ半額で売った。そのうち彼はカナダに菓子修行に行くと言って日本を去って行った。異国の地で今でも走っていたらちょっとうれしい。

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 結婚してすぐの頃、ちょっと自転車に色気が出てきて、GIANTのマウンテンバイクもどきを買って、通勤に使ってた時期もあった。でも距離が近く、徒歩の方が運動になるのですぐに止めてしまった。関東に引っ越す時にも一応持ってきたが、全く乗ることもなく、そのうちサビが全体に回って使い物にならなくなったので粗大ゴミに出してしまった(溶接が良くないのか鉄が良くないのか、安物は接合部分から錆び始めると、それが一気に回る気がする)。
 いずれにせよチャリ熱の再燃、というにはとても寂しいものであった。

 今は自転車ブームだそうである。六本木なんて行くとドロップハンドルがウジャウジャ走っている。

 専門誌も何冊も出されているし、家の近所にまでナカナカいい自転車屋がオープンしたりして、タマに覗くとコルナゴとかフォンドリエストとか、息を呑むように鮮やかで美しいカラーのフレームが吊るされていたりする。
 しかし、旅の道具としてチャリを使う気はもはやサラサラないし、件の通勤距離では遠すぎて、買ったところで宝の持ち腐れになるのは必定だろうし、それに第一、今の体重で果たしてフレームが耐えることができるのかはなはだ不安でもあるし(笑)・・・・・・で、購入にはどうも踏み切れないのである。
 まずはダイエットから始めなくては!

※註

 おれの記憶では3種類だが、ネットで発見したカタログには5種類出ている。レディは当初なかった気がするので、このカタログはちょっと時代が下がるものなのか、おれの記憶違いかどちらかだろう。 


附記:その後、ナショナルの10段変速は「サイクラー10」「サイクラー15」って名前だったことが判明した。

2005.01.10

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