西日本に移り住んで懸崖造りが好きな以上、絶対に避けては通れない場所は三徳山・三仏寺を置いて他にはないと言っても過言ではなかろう・・・・・・エラく肩に力の入った出だしになったな。
いやまぁそれほどまでに三徳山・三仏寺って、シンボルともいえる投入堂を筆頭に、境内の多くの堂宇が殆ど懸崖造り、それもガチでトリッキーな高い舞台を持ってたりするっちゅうとんでもないお寺なのですよ。そんじょそこらの2~3段の申し訳程度の舞台なんかとはワケが違うのだ。
フリーな身になったにも拘らず、「貧乏ヒマなし」の格言通り、なんだかんだ日々の雑事に追われてナカナカ行けなかったのだが、先日ようやっと念願叶って登ることができた。本日はそのベタなレポートと思って気楽に読み飛ばしていただきたい。
ご存じない方は少ないと思うが、初めに簡単に紹介しとくと、三徳山・三仏寺とは鳥取の名湯・三朝温泉の奥にある天台宗系列の山岳寺院である。その開基は実に奈良時代より前の706年、修験道のルーツである役小角によると言われるが、まぁこれは間違いなく後世のデッチ上げだろう。その後849年には慈覚大師円仁が寺として整備したともいうが、これだってかなり怪しいと個人的には思ってる。
恐らくは真言宗系の吉野の修験道を天台宗お得意のパクリと換骨奪胎で、それまで古くからの山岳宗教の拠点だったところをブランド力にモノ言わせてオーガナイズして取り込んで大々的に売ろうとしたのが平安末期くらい、ってのがミもフタもないけど正解ではないかと睨んでる。知らんけど。
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それにしても高速道路が年々整備され、鳥取も随分と近くなったもんだ。昔は9号線をウンザリするほど延々とひた走るか、29号線で戸倉峠超えるかくらいしかなかったのが、いささかショボい作りとは申せ鳥取道が繋がり、全通には今しばらくかかるだろうけど日本海道路が東西に整備されたことでアクセスしやすくなった。
アッちゅう間に瑞穂宝木ICに到着、かつて訪ねたことのある鹿野温泉を横目に山の裏から回り込むようにして目的地に到着。今や超有名スポットだけあって駐車場があちこちにある。坂道をちょっと上がるともうお寺の入口。入るだけだと400円、投入堂まで行くのは別途800円の合計1,200円と妙に律儀な料金となっているのが面白い。まずは400円払うとパンフレットと角大師の護符をくれた。今でも山内には宿坊がいくつかあり、その前を通って本堂脇にある登山受付事務所で次の800円を払うことになるが、ここで靴がチャンとしたものか一人ひとりチェックされ、人数分の輪袈裟・・・・・・要はタスキを渡されると、いよいよ本格的な登りが始まる。ちなみに単独行は何かあったら危険っちゅうことで登らせてくれない。加藤文太郎ならここで追い返される、っちゅうこっちゃね。
盛るのは嫌いなんで正直に書くと、日本一危険だのなんだの世評はかますびしいが、参道(=登山道)は登山を普段からやってる程度の人ならさほど危なくもなんともない。急な箇所にはロープや鎖がチャンと設けられてるので、よほど足腰に自信のない人以外は普通に登れるだろう。ハードコア度でいえば、北海道の太田神社の方が余程ヤバいんちゃうかな?
鎖場をよじ登るとまずは文殊堂。見事な懸崖造りで、何を好き好んで!?と言いたくなるような急な岩場のてっぺんに懸崖が組まれてお堂が建っている。厳密に言うとこれは四方懸崖造りってタイプになるだろう。お堂周囲の回廊には手すりなんて野暮なものはなく、落ちたらイッパツだ。見渡す限り秋晴れの空と紅葉が美しい。お堂の背後には注連縄が巻かれた巨石があり、明らかにここが仏教以前からの日本独自の巨石振興の場であったことが伺われる。
さらに登ってくと今度は地蔵堂。作りは文殊堂とほぼ同じ。ホンマはこれら一つだけでも十分に凄すぎるんだけど慣れとは恐ろしい。また同じようなんがあるな~、と思ってしまったおれは汚れちまった悲しいオッサンなんだろう。
続いては鐘楼。ご丁寧にこれも懸崖造り。どうして建てたかももちろん疑問だけど、一説には3トンもあるというクッソ重たい梵鐘をどのようにしてここまで担ぎ上げたのかが不思議だ。ひょっとしたらここに仮設の鋳造場を作ったのかも知れないな。それなら小分けに砂鉄を持ち上げるだけで済むからね。
途中、所謂「馬の背」とか「蟻の門渡り」なんて呼ばれるような狭い岩稜も超えて行く。そこまで危なくないが、濡れてて滑ったらちょとヤバいかな?という印象。少し道が平たんになったところに今度は納経堂と観音堂。どちらもやはり懸崖造り・・・・・・って、前者はまぁそこまででもないか。後者はおれが勝手に名付けるところの「メリ込み系」で、覆いかぶさるようになった岩窟にスッポリ収まるように平べったいお堂が建てられている。何となく、信州・松本の岩殿山観音堂を想い出した。
そしてボタボタ滴る山水のシャワーの下を潜って回り込むと、間近に見えた。
昔の日本建築の恐るべき水準の高さを物語る、トリッキーな投入堂がすぐ近くの大岩壁の僅かな窪みにへばり付いている。支える柱は僅かに16本、よぉあんなんで重量に耐えられるな、と言いたくなるくらいに細くて華奢だ。何でも華奢に見せるためにワザワザ角を削って八角にしてるっちゅうんだから芸が細かい。少し離れた所にはチョコンと元結掛堂もへばり付いている。
ちなみに「投入堂」とはあくまで俗称であり、正確にはメインの建物である蔵王堂の横に小さな愛染堂がくっ付いて2ヶイチになっている。今は残念ながらここへは立ち入り禁止となってるが、昭和34年までは一般の人でも入れたそうだ。いやいやホンマ当時の人が羨ましい。何でも入るには、懸崖造りのお堂でたまに見掛ける「宇宙船ハッチタイプ」で、建物の床の穴からだったらしい。
もちろん、役行者が投げ入れたのではない・・・・・・ないが、このエピソードにすでに謎とされる建築方法のヒントがあるような気がしてる。そりゃぁ最終的には多少の現物合わせはあったろうが、平成の大修理がそうだったように、緻密な測量によって柱の長さやら岩窟の高さ・深さ等をキッチリ計算して、窪みにスッポリ嵌まるように設計したのを一旦地上で仮り組みしてからバラして、そこに職人の経験と勘と知恵を駆使し、膨大な労働力を投入して、巨大な足場を組んで建てられたんだろうというのが現在の最も有力な説となっているし、おれもそれが現実的な解だろうと思う。地上に奇跡の御業を顕現させる・・・・・・ただそれだけのために、だ。信の力とは恐ろしい。
謎はむしろ、これだけの大事業の資金が誰の力によって?どこから出たんだ?ってことだろう。根がセコいおれはすぐにそっちが気になってしまう(笑)。だってさぁ~、今でも十分辺鄙な山の中に、尋常でない、っちゅうか異常にエキセントリックな作りの諸堂を建立するには凄まじく金が掛かったはずやんか。そこが一番分からない。ただ、半端な喜捨をナンボ積み重ねたところでどうにもならないだろうし、境内全体を貫く一種の統一感は、この寺の造営作業がそれなりに一貫した巨大プロジェクトだったことを物語る。
残念ながらその点での考察がなされた文献には未だに行き当たっていない。おれ的には修験道とその背後に絶えず見え隠れする古くからの山の民、そして彼らの優れた鉱山知識によって掘り出された金銀、あるいは宝玉によって資金を得たのではないか?と思ってるんだけど、これは何の根拠もない憶測の域を出ない。
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ユックリ写真撮ったりしながらだったんでそれなりに時間は掛かってしまったけれど、どうだろ?歩くだけなら往復の所要時間は普段の裏山登山よりも短いくらいだった。登山としてはまぁまぁスリリングではあるものの、距離的には意外に呆気ない。
タスキを返却して、下山時刻を記入して受付事務所を出る。夕方、タスキの数を勘定して合わなかったり、記入漏れがあったりしたら大騒ぎになるらしい。
最後、宝物殿にも立ち寄ってみた。過去の大修理で交換された古材(これも国宝)なんかも展示されている。見れば至る所、虫食いと腐食だらけでボロボロ。冬は雪だってそれなりに積もる厳しい自然環境の中、よぉこんなんで長年に亘り崩落せずにあの険しいトコにへばり付いてたなぁ~、と感心してしまう。それだけ芯のシッカリした材を選んでた、ってコトに他ならない。本当に昔の職人のスキルは素晴らしかったのだ。
奥に進むと、元は投入堂の本尊だった謎めいた日本独自の仏、蔵王権現が何体も並ぶ。単純明快ではあるものの、何だか機嫌損ねたガキがごんたくれてイ゛ーッ゛ってなって暴れてるような、他に類例のない不思議なポーズだ。こんなんが密教伝来以前にあったワケがない。何が役行者だ。大体、「権現」なんて言葉が一般化したんだって平安時代やんけ。明らかに不動明王を始めとする色んな明王の姿が輸入されて以降、あらゆる表現様式がそうであるようにマニエリスム化と原点回帰を反復する中で、練りに練って考案されたモノだろう。
こうして三徳山・三仏寺に行くことは還暦を過ぎてようやく叶った。しかし、行ったことで却って日本の修験道を巡る余りに雑多で入り組んだ解けない謎が余計に深まったような気がする。恐るべき寺だ。春になったらまた行こう。 |