「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
Dark Obsessions

●10年余り前、私はドトーのノイズ青年だった。自分がうるさいのではない(んなコトもないか・・・・・・)。当時猖獗を極めていたパンク/ニューウェーブ/オルタナティブといった音楽の中に、ノイズ/インダストリアル系と呼ばれる一群があって、ハマリまくってたのだった。ま、ドマイナーな轟音である。一時はその手のレコードが部屋中に溢れていた。

●そのノイズバンドの元祖死体派(といってもセリーヌではないよ)SPK、あれはエグかった。ジャケットは死体写真のオンパレード。タイトルもいっちゃってる。

 ”Meat Cutting Process”「肉の切開過程」かな
 ”Information Overload Unit” 「情報過剰機構」とでも訳すか
 ”Leichenschrei”「死体の叫び」だわな、こりゃ
 ”Last Attempt At Paradise”「極楽、最後の挑戦」かな

●神戸の猟奇的事件の報道を見ながらそんな、かつて自分の耽溺していた世界を思い出したりしたのだ。彼は、決して特別な存在ではない。世の中には程度の差こそあれ、下降倫理の虜となった者はゴマンといる。

●猫殺し、とゆーと、非常階段と並ぶ日本のハードコアノイズの雄、現ボアダムズのヤマツカ率いるハナタラシが思い出される。初期の頃、アイちゃんは、よく電ノコで猫をぶった切ってた。ついでに自分の足にもノコ入れてライブ(といっても暴れるだけなんだが)が中断したのは、あれは、拾得だったっけ。

●風車のようなあのマーク、ありゃゾディアックとナチスの影響なのだそうだが、ノイズ一派が用いたシンボルととても良く似通っていた。Dニルセン・Pサトクリフへの賛辞を惜しまなかったサイテーバンド、ホワイトハウス/カムオルグ、或いは前述のハナタラシのマークはそっくりである。知ってたのだろうか?

●強いられたマイノリティではなしに、自らの意志で人間社会から逸脱してしまう者は確かに存在する。その傾き(かぶき)方に無自覚なままに辺境へと至る者は、いわばディスコミュニケーションの果てで、個と全、私vs私以外の世界/社会、といった敵対関係にまで外界との関係が収斂し、自己の存在を先鋭化する。

●新聞社に送りつけられた反抗声明文で注目すべきは、だから、執拗に繰り返される「ボク」なのだと思う。しかし、社会との連関を断って人間が人間としてのリアリティを保つのは容易ではない。誰かどこかの哲学者の言葉にある。

 --------エトナ山の洞窟に一人あっても、人は社会的である。

至言と言うべきだろう。病でさえ、社会的な相対性故に病たりうるのだから。

●それにしても、冒頭に挙げたSPKのアルバムタイトルは、奇しくも予見的な意味合いを持っていたコトに気付かされる。

●「15少年漂流記」のようなノー天気な冒険活劇から、苦渋に満ちた反ユートピア小説「蠅の王」、それらを踏まえて天才・楳図かづおは「漂流教室」を描いた。少年少女達は夢と希望を持つ一方で、やはり冷酷で無慈悲である。

その事実を彼はキチンと活写している。そして彼の近年の代表作のタイトルが「14才」であることも、覚えておいて良いだろう。天才とゆーんはこーゆーもんだ。時代が後から意味と不思議な符合を与えてくれる。

●そこまで考えて、凡庸な能力が選民意識を安易に持てる現代は、やっぱしおかしいと思った。それこそ”Information Overload Unit”なのだな。

●14才の頃の私はひねくれてはいたが、何も知らんガキだった。それこそ、ゾディアックもニルセンもサトクリフもジャックザリパーもMベルもCマンソンも知らなんだ。マセた野郎だ、アイツは。秀才面しやがって。ビデオ屋でしょーもないホラー借りるんなら、福原にでも行って袋ナメでもしてもろてヌイてこい!・・・・・・てな感じで、頭良さそうでヒヨワなガキをおちょくって、神戸の産んだ天才・中島らも先生が昔、何かに書いとった。

●自分がこの世で誰からも遠いと感じる疎外感、それは鼻持ちならない三流のエリート意識の裏返しに他ならない。と喝破してしまえばそれまでだが、この感覚に苛まされる者が、この究極の選択に至るとヤバい。

 --------自分が滅ぶか、世界を滅ぼすか

憎悪は拡散し、博愛に対峙する。対象を喪失したルサンチマンは、必定、弱者に向かう。そうしてプチプチ殺ってって得られるカタルシスと自己存在のリアリティは憎しみを再生産し、より陰惨な世界への降下しか選択肢を残さない。何ともうっとーしいトートロジーの罠から抜け出す方法は、とりもなおさず、逮捕され、社会的に(或いは生命そのものを)抹殺されるしかないのだろう。

●事件の猟奇性が単なる自己顕示欲の産物・捜査の攪乱を狙った作戦だけ、と思ったら大間違い。ああでもしないと、最早、彼はリアリティを得られない地平にまで行ってた事も確かだろう。チキンレースに命を賭けて充足感を得るのもマヌケだが、暗く孤独な作業で、必死に自己の拠り所を主張しようとしたのはさらにマヌケだ。愚鈍なのはアンタ自身だった。

●ハナシは変わるが、英語には意外と奥深い面もあって「猟奇的」を意味する形容詞には”Bizzarre”と”Mondo” の2つある。モンドは元々はイタリア語でヤコベッティっちゅー監督が60年代にボコボコ作った、インチキキワモノルポ映画「世界残酷何とか」のタイトルがルーツである。だから明るいとゆーか、「鬼面人を驚かす」を自覚してるワケだな。対してビザーレは暗い。変質者的なニュアンスが強い。

で、これで自分がどーなのかとゆーと、結構ビザーレなのだ。ノイズのLPは売り飛ばしたが、死体・騎形・殺人に関する本がワンサとある。青林堂系のマイナーマンガは勿論、エロメディアに至るまで大概揃っている。デスファイルなんちゅーゲスな鬼畜ビデオにも一時ハマっとった。法医学の本も愛読書だった。うーん、アブねえ。威張るワケではないが、今回の事件の元ネタとなった多くの事柄、みんな知ってたもんな。ホラー映画は嫌いだが・・・・・・だってつまらんのだもん。ニセ物なんて・・・・・・なんてね。

●もし、この近辺で同様の事件が発生したら疑われるやろーなー。周囲の連中は知ってるから。なーんて。

●まあしかし、今の時代そーゆー性癖は別段珍しくも何ともない。本屋に行けば、山の様にキワモノ鬼畜本は変態メディアの1種として売られてる。こんな1ジャンルとして成立するのだから、結構数ははけるに違いない。あまつさえ、トンデモ本のコーナーまである始末だ。

偉そうなコトは言えない。1つだけ言えるとしたら、そのテのことをいろいろ知ってる事がトンがってる証だとか、ファッションみたいなもんだとか、安易に考えないことだ。ルストモルドの当事者はいつも痛々しい。いみじくもCウィルソンは、Dニルセンを紹介するに当たって書いた。彼の行為は「逸脱した自己の探究」である、と。

●さてそうして、ここいらからそろそろ旅と行楽との接点が始まる。

●家出/蒸発/出奔/夜逃げ、
 逐電/失踪/行方不明。
 漂泊/浮草/根無し草、
 流浪/放浪/ボヘミアン。
 フーテン/ルンペン/乞食に流民、
 レゲエ/浮浪者/ホームレス。
 巡礼/角付け/角兵衛獅子、
 山窩/ジプシー/世捨て人。
 客死/不慮の死/野垂れ死に、
 行き倒れては、野ざらし。

●畢竟、根本はそれらへの暗い衝動なのだ。オブセッションは私と私の係累との繋がりを断たせようと苛む。知らん土地で月に何日か、自分をその場所に流れる日常の柵の外に置く事で、辛くも、普段の自身の平凡な日常は(結構奇嬌な言動は多いにせよ)、平衡は、保たれている。

 ・・・・・・そんな気がする。

●下降倫理は安易なロマンティシズムと表裏一体である。上にズラズラッとヘタな語呂合わせみたいに列挙した数々の言葉に、ある種の屈折した憧れを抱くことは別段何の不思議もない。歳が若ければなおさらだ。

深淵なんて始めっから無い。彼が覗き込んでたのは、ほんなエエカッコしいの、「人間存在」やら「意識」なんてものではサラサラない。極めて狭義に限定された「道徳の限界」を確かめてただけだろう。

それに気付いた時、多分「明るい虚無」はやって来る。

●少なくとも自分にとって旅や行楽は、実の所「癒し」の行為ではない。むしろ「代償行為」とか「シミュレーション」に近い。何の?

無論、社会の規範を乗り越えてまで世間から(恐ろしいことにそれは犯罪者のレベルで実現可能と言うことに他ならない)、遊離しようとするトラバイルな欲望の事である。

だから、帰る場所がある以上、旅の終わりにはどこか満たされない寂寥感が漂う。けどしかし、それで自分は何とか救われているのだろう。

それでいい。その先に足を踏み入れようとするのは、結局の所、アホな物好きのするコトだ。

 ・・・・・・・・・・・・・

1997.07〜10 神戸連続児童殺傷事件の報道を読んで


2004補足
 これは、世間を騒がせた酒鬼薔薇クンの事件をテーマにいろいろ書いたものをつないだのだが、いささか内容が陰惨に過ぎるために発表を自粛していたものである。

Original1997 Add 2004
----Asylum in Silence----秘湯 露天 混浴から野宿 キャンプ プログレ パンク オルタナ ノイズまで
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