「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
中島らもを悼む


追悼ライブのポスター

 WEB上であれこれ書き連ねて行く第一回が追悼文ではあまりに暗い気がするが、彼のカメレオンの色のように多彩で自由闊達な活動をおれはものすごく尊敬していた。
 天才と同じようなことが出来るなどと、考えるだけでもおこがましいが、せめて少しはこのHPを運営していく上であやかってみたい・・・・・・それくらいは思うので最初に取り上げた。

 近畿圏で、ちょっとサブカルでマイナーな音楽やら芝居やら何やらに関わってた連中なら、多分誰もが彼と「知り合いの知り合い」くらいの接点はあったのではないだろうか。ま、知り合いの知り合いは無関係、なんだけどね。おれも直接の面識はなかったが、意外に小柄なその姿を見かけたことくらいはあるし、バンドのヴォーカルだった男は一人でやってた頃に誰かに引き合わされて、「ま、あんましマイナーにこだわらんでもええんちゃう〜」とか言われたことがあると言ってたな。
 今はなき「ビックリハウス」だったかに、毎号へんてこりんな広告を書き、大阪ローカルのラジオとかにヒョコヒョコ顔を出し、各地のライブハウスとかにも現れたりして、とにかく何だかすごい人であった。
 その辺の詳しい活動については、他人の伝聞よりも、彼自身の著作を読めばよく分かる。

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 いささか旧聞に属するが、先日、中島らもが酔っ払って飲み屋の階段から落っこちて亡くなった。脳挫傷だという。「大酒呑みの芸術家の末路はどこか滑稽で悲惨」というのは昔からの通説だけれども、やはりその例に漏れず、いかにも日本最後のジャンキーアーティストらしい死に方だった。
 そういや「馬を一発で眠らせることができる」ほどの睡眠薬を毎日飲んでいたと、エッセーにも書いてたから、あるいは耐性ができてしまって麻酔とかができんかったんかな?手術の手がつけれんかったんかな?とも思う。

 しかしやはり、長年の読者の一人としては、もっと作品を発表してほしかったなぁ、というのが偽らざる気分であって、52歳と言う享年もあまりに早かった・・・・・・と言いつつ、あれだけクスリ漬け・酒漬けでボロボロになって、躁鬱病まで発症しながらよくその歳まで生きたな、とも同時に思うけどね。

 そういやいつだったか、NHKのインタビュー番組に出てた姿はひどく痛々しいものだった。歳より20くらい老けたような風貌で、喋りがスローモーなのは昔からだからこれは仕方ないとしても、手が震えてちゃってペンが持てないもんだから奥さんに口述筆記させて、それでもタバコだけはロンピーをとっかえひっかえ吸うその姿は、お世辞にもカッコよいものではなく、「あちゃ〜!おっちゃんヘロヘロでんなぁ〜」と、思わずテレビの画面に向かってつぶやいてしまうほどだった。よくあれでギター持ってバンドがやれてたもんだ。
 けど、バロウズみたいな長寿の例もあるし、やっぱし惜しいわ。

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 彼が東大進学日本一の超進学校である灘中・灘高を出てるのは有名な話だが、そのことについてちょっとおもしろい話がある。まだ彼が世に出るはるか以前のことだ。多分、70年代半ばだったろう、そこの校長である勝山ナントカというセンセが書いた本が、たしか祥伝社のノンブックという新書から出たのである。

 人の価値を学歴で判断して何ら恥じることのない”教育熱心”な、おれの父親が、ある日それを買ってきて、感心したように言った。

  ------ほぉ!天下のナダにも落ちこぼれがおるねんな!おい、見てみぃ!ゲーダイに行っとるヤツがおるぞ。

 見てみろと差し出されたのは、資料として掲載されていた直近10年分くらいの卒業生の進学先別統計表で、そこにはやれトーダイぢゃキョーダイぢゃハンダイぢゃシンダイぢゃ、と綺羅星のようにブランド大学の欄に3ケタの人数が並ぶ中に、「大阪芸術大学」が場違いな感じで載っており、その欄に「1」と記されていた(大阪芸大出身の方、気に障ったらごめんなさい!!)。

 そのときは無論知る由もなかったが、この「1」が中島らもであったことは、後になって彼のエッセイで知った。

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 彼の作品はたしかに概して軽い。軽いところにさらに笑いの要素が沢山詰め込まれている。どんなにシリアスなこと、深刻なことも巧みにそれらのオブラートでくるんであって、おもしろいし疲れない。しかも下品な笑いは一つも出てこない。たとえシモネタであれ、ある種の透明感がある。
 その透明感はしかしながら、無常観とか厭世観に近い手触り、知性の極で見てはいけないものを見た者が持つような、覚醒して突き放した感じ、とも言えるだろう。つまり「暗さの果ての笑い」なのである。

 そういえば昔、彼がTVで企画・プロデュースしてたバラエティ番組に「なげやり倶楽部」というのがあった。まだキッチュと名乗っていた頃の松尾貴史が、桂米朝のモノマネで「味の招待席」をパロって、「今日のぶぶ漬けはですな、すぺぇすぶぶ漬けざらまんだぁ〜!!」とかやるのが死ぬほどおかしくて、おれは欠かさず見ていた。しかし、どうも一般受けしなかったみたいで10回かそこらで終わってしまった幻の番組である(他には「今日の不幸」のコーナーというのが妙におかしかったな・・・・・・)。こういう番組は通常深夜にやることが多いのに、なぜか週末の夕方からやってたのも人気が出なかった原因かも知れない。

 ・・・・・・と、そんなことは置いといて、だ。今にして思えば、奇しくもその番組タイトルなのだ。一言で言って彼の作品の怖さは。「この世」とか「命」とか、フツーは誰もが拘泥するものに対して「なげやり」な、大阪弁で言えば「やたけた」な感じがどこか絶えず漂っている。下降倫理といっても良いかもしれない。

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 小説家・エッセイスト・脚本家・ミュージシャン・コピーライター・構成作家・俳優・イラストレーターetc・・・・・・一体全体彼はいくつの顔を持ってたのだろう。それらが可能だったのは、単に「器用だった」などという理由ではなく、恐るべき記憶力と深い学識をバックにした博覧強記ぶり(軽く書いてあるが、様々な引用が到る所に散りばめられてある)と、非常に明快な分析力や構成力の賜物である。天才である。天才であるが、でもこの程度の天才は結構沢山いるのも事実で、彼のすごさはその向こうにある。

 この国はどうも、「お笑いは三文安く見る」傾向が強く、作り手の側もちょっと名が売れると・・・・・・いわばある程度功成り名を遂げたりすると、途端に堅苦しいものを発表したりして、大家になっていくものだが、そんな中にあって彼は決してそうはならず、最後まで軽妙を貫いた。最晩年にハッパみたいなしょーもないもんでパクられたのは、ジャンキーとしては不覚だったが、それでも「牢屋でやせるダイエット」と来たもんだ(笑)。そしてそういうスタンスを維持することが、創作者として実は大変な意思と努力が必要であることは論を待たない。
 
 おれもそうありたいと、本当に思う。
 
 ともあれ我々は偉大な芸術家を喪った。自身は謙遜して「今まで散々、地獄に落ちるようなことをしてきた」などと書いていたけれども、これほど魅力あふれる人物が地獄に落ちるわけがなかろう。今頃は天国でカド君こと角谷美智夫と、素敵なロックンロールを飄々と弾いておられることと思う。衷心より冥福を祈る。

2004.10.03

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