「シズカナカクレガ」ヘヤフコソ
植物考


花は本当は猥褻な存在だ。

 最近、植物という存在がとても怖く思えてきた。

 この世のあらゆる生物は概ね植物と動物、あとは未分化な原始生物からできている。植物はほとんどあまねく地上に存在しており、その分布の広さも密度も動物なんかよりずっと高いのだけど、何せウロウロ動き回ったりしないし、声を出したりもしないから、あまり目立つ存在ではないっちゅうか、なぁんも考えてないように思える。もちろん道具も使わなければ、言語によるコミュニケーションもない。
 そんなんだから引っこ抜こうが煮よう焼こうが揚げようが漬け込もうがすりつぶそうがチンカラ干しにしようが、動物に比べると命を奪う罪悪感なんてのもさっぱり湧かない。こうして考えると実はヴェジタリアンの根拠なんてモンは、その程度の地平にあるだけであって、まったくもって薄弱な気がする。

 もし、木が伐り倒されるときに「ウギャァ〜ッ!」とか断末魔の叫びを上げたら、これは随分気色悪いと思う。なるほどたしかに断頭台の下でその血を吸って成長するマンドラゴラは引っこ抜かれると、実に不吉な金切り声を上げ、それを聴いた者は発狂したり死んでしまう。だから抜くのには犬を使うのだ・・・・・・などとマコトシヤカに言われるけれど、これはあくまで伝説に過ぎない。植物は悲鳴なんて上げない。ましてや伐られるのを嫌がって身をよじられたり、暴れられたりしても大変だろう。
 あるいは、銀杏や山椒の木が伴侶を求めて求愛行動なんてしてもかなり不気味だし、第一大き過ぎてその辺をウロウロほっつき回られては迷惑でさえもある。さらにメスを巡ってオス同士が闘うなんてぇのも想像したら、かなり鬱陶しい絵だと思う。基本的に植物は虫媒とか言ったっけ?虫に受粉させて種子を作り、その子孫を残すのだ。

 要はひじょうに受動的でスタティックな存在なのだ。水が無くなりゃただもう枯れるだけだし、水浸しになれば根腐れてやはり枯れてしまう。

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 ・・・・・・で、それって果たしてホントなんだろうか?実は植物って、極めて高度な知性を有してるのではないのだろうか?最近そんな気がしてきて、怖くなってきたのだ。まぁ怖いったって、恐怖よりは畏怖、と言って好いかも知れない。

 みなさんもこんな話を子供の頃に先生から教わったり図鑑で読んだりした記憶がないだろうか?

 ------花が美しいのは目立つことで、甘い蜜を蓄えるのはその匂いで、受粉のための虫をより沢山おびき寄せるためです。

 生意気とはいえ、所詮は浅はかなガキに過ぎなかったおれは、そのような知識を得ることだけで満足してしまい、その話の怖さを深く考えることをしなかったのだが、よくよく考えると、そのような工夫ができるってことは、植物は生殖に利用する虫の存在のみならず、派手で華やかな色とは何であるか、甘い芳香が何であるかをちゃんと認識しているということになる。
 逆に世界最大の花と言われるラフレシアやスマトラオオコンニャクは猛烈な臭気を放つことで知られる。有り体に言ってその臭いは死体のそれである。なぜなら、死肉に群がるハエやらシデムシを媒介にしてヤツ等は受粉するためだ。おまけにラフレシアはその暗褐色の花弁や、茎もロクすっぽ持たずに地面にビローンと直接咲くことから、どうやら転がる動物の死体の形態の模倣までしているらしい。一方、スマトラオオコンニャクは一旦虫を巨大な壺状のところに閉じ込めて、花粉まみれにした挙句、花自体が崩壊して虫を脱出させる・・・・・・な〜んてトリッキーなことまでする。

 梅雨明けと共に美しいラッパ型の花を咲かせるアサガオには、ひじょうに高度な体内時計が備わっていると言われる。夏至を過ぎて昼が短くなるとキッチリ開花し、結実するのである。だから、実験室で育てて昼間を長いままにしておくといつまでたっても花は咲かない。こういった植物は菊だのコスモス他にも沢山あって短日植物と言われる。逆に、昼が伸びることで開花するのは長日植物といってキンギョソウやら大根やら、これまた沢山ある。みんな、その内部に少なくとも明るい暗いの違いと、その長さを認識するだけの能力が備わっているワケだ。

 タンポポは綿毛の羽根でもって風に乗って種を遠くにばら撒く。ヌスビトハギを代表とするクッツキムシの名前で呼ばれる一群の植物は棘やら鉤やらネバネバで動物その他にへばり付いて種をばら撒く。色んな植物の果実はその甘さでもって鳥に啄まれ、糞と一緒に排出されることで種をばら撒く。それだけでなく消化されることで種が発芽しやすくなることに加え、さらには糞を成長のための肥料にしている。

 これらはいずれも明らかに自然現象や、いろんな動物の行動を理解し、利用してるからこそなせるワザばかりである。

 これらは果たして単なるノー天気な「進化」なのだろうか?視覚や嗅覚、触覚に加えて、他の生物の行動特性や自然の様々な現象への論理的な洞察力を具備した上での、自覚的な意思に基づく凄まじいまでの「工夫」ではないのか?・・・・・・そう思うと何だかとても怖くなってきたのだ。
 百歩譲って弦や枝は手足のような触覚を有することができるのかも知れないけど、どこ探したって目も鼻もないやんか。脳味噌だってあらへんやんか。一体全体どのようにして外界を認識してるんだ!?

 そりゃぁ教えられもせんのに托卵を行う郭公だって摩訶不思議な存在だ。生まれた川を覚えていてそこに戻る鮭もスゴい。四季の変化に合わせて何千キロも大海原を越えて来る渡り鳥も途轍もない。川の中にダム状の巣を作るビーバーだって、理解不能な高い技術を教えられんのにやってる。どれもこれも凄いし素晴らしい。
 しかし、上で列挙したような植物の能力はこれらとちょっと次元が違うような気がする。低いのではない。遥かに凌駕しているのだ。 ここで神の在/不在を論じる気はないし、ましてやこれらの驚異的な植物の能力を神の御業などという気はサラサラない。超越的なモノの存在をおれは決して否定はしないけれど、これを安直に神に帰結させることは却って不遜なことのようにおれには思える。

 だから、植物は自らの意思で獲得したのだ、と思いたい。

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 植物は動物に比べると本当に緩慢で静かで受動的だ。何も言わないし、殺し合いもしなければ、抵抗もしない。虚勢を張ったりすることもない。ちょっと媒介してくれる虫を騙すことはするけれど(笑)。何より肉の交わりに快楽を見出すこともない。シクラメンのような一部の変り種を除けば、性器であるところの花を誇るかのように虚空に向かって剥き出しにているにもかかわらず、だ。ちなみに雌雄同体の植物の方がより進化した存在らしい。

 植物とは本当に達観して超越した、生物が至るべき一つの到達点のようにさえ思える。ならばヴェジタリアンなんて、動物であることの業に対峙しえない、度し難いほどの偽善者の戯れ事に過ぎないのかも知れない。

2013.07.04

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